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2004年5月15日 VOL.10

■書評
・『禅的生活』─ 河西 孝紀
・『呼吸入門』─ 櫻田 薫
・『現代の経営』─ 矢野 寛市

【私の一言】『
海外から見る眼』(前回のつづき)岡田 桂典

 

 

『禅的生活』
著者:玄侑宗久  出版社:ちくま新書

河西 孝紀 
 現状の仏教には、まったく関心は無いが、何故か「禅」という言葉には魅力を感ずる。
 では禅とは何?と聞かれても即答に窮する。不惑の年齢を遥かに超えながら、反省しきりの日々を送っている私の目にとまったのは、皆さんご存知の芥川賞受賞作家、玄侑宗久氏の「禅的生活」である。
本書は禅のアウトラインを描き、さまざまの禅語を通じて禅の世界を語っている。
 「本書によって日常生活に具体的な変化を生み出し、迷いや辛さが少しでも減り、楽になって貰えたら嬉しい」と著者はのべている。この本のお陰で禅僧がよく描く「円」の外側の一端に辛うじてしがみつけたかなと勝手に思いこんでいる。
 そこでご参考までに本書の一部を抜粋して紹介してみよう。
◎「可もなし不可もなし」
一般に「まあまあである」という意味に使われているが、本来の意味は為すべきことや、為してはならないことを、はっきり決めつけてはいけない。臨機応変に対応すべしということである。
◎「うすらぼんやり」
「うすら」とはあまりいい意味に使われていない言葉であるが、禅の世界では「見るともなく見る」
という解釈をする。禅の世界でいう「うすらぼんやり」の状態で人間は生命力が最大になるという厄介な生き物であるとのこと。
◎「言語道断」
物事を表現したら最後、そのものの全体性が破れるから、そのもの本体ではなくなる。理解したり表現したりする世界ではなく、ただ味わうことだけの世界ということらしい。
 「悟り」の世界は以外なことに「うすらぼんやり」という入り口から入るようだ。禅の世界でいう「うすらぼんやり」とは程遠い、世間一般の「うすらぼんやり」が紹介しているので著者の真意を伝えられているか疑問ですが、興味のある方は是非一読を。




『呼吸入門
著者:斎藤孝  出版社:角川書店

櫻田 薫 
 要するに3秒吸って、2秒溜めて、15秒吐く呼吸法をマスターするだけで、いろいろな力が身について人生が幸せになるという話である。また、息の文化は、日本文化の粋であると言う。合気道、弓道、書道から声楽や大工修行まで言われてみると、呼吸に深い関係があるが、これらの上達には強い呼吸力が必要である。作者は「声に出して読みたい日本語」でベストセラー作家になったが、本職は呼吸の研究家らしい。
 現代人は浅く落ち着きのない口呼吸をしているが、昔から日本人は正座という身体文化を持ち、腹で深い息をすることで武士や職人の技が生まれた。道端にだらりと座りこんでいる最近の若者とは対極にあるが、彼らは緊急のことに際しても落ち着いて判断でき、即座に対応できる、はらの据わった構えを持っていた。からだの状態と心の在り方は息の仕方で結び付けられる。呼吸法は、感情をコントロールする技術である。笑うことは息を吐き出すことであるが、それで気持ちがリラックスし解放される。
 野球の投手も緊迫の場面で大きく息を吐いて投球動作に移る。気持ちがいい呼吸法をマスターすれば体も心も落ち着き、脳の働きも変わる。空手でもテニスでもエイとかヤーとか掛け声を発することで、貯めていた息を一気に放ち生命感を鼓舞する。声を出すとお腹に力が入って気合が入るが、このように吸うより吐く方が重要である。
 明治の哲学者中井正一や整体の野口晴哉の著作から哲学的な引用もあるが、息を細く長く吐き続けるなど本書を読んでコツを習得すれば、はらが据わり、プレッシャーにも動揺せず、他者や世界(自然)と調和し、いつも意識が覚醒している人間になれるだろう。おそらくゴルフでも悩むことがなくなるに違いない。



『現代の経営』
著者:P・F・ドラッカー  訳/上田惇生  出版社:ダイヤモンド社刊

矢野 寛市 
 本書では冒頭に事業の目的を定義しているが、一般の経営論とは異なり、それは「最大利潤の追求」ではなく「顧客の創造」であるとしている。
 これは私のささやかな事業経営の経験からくる勝手な解釈であるが、事業の目的を「顧客の創造」と考えると、売上を伸ばす有益なアイデアが色々と湧いてくるのに対し、事業の目的を「最大利潤の追求」と考えると、往々にして手段を誤まることになる。
 要は定義が正しいかどうかは余り問題ではなく、どちらが事業経営に良い結果を生むかということが大事なのではないか。






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海外から見る眼』(前回のつづき)

岡田 桂典

 最近のTVを見ていて感じました。人質事件で報道しうる事実は“情報が少なくて分からない”、“家族は心配している”という事だけなのに、貴重な時間を他の番組を潰してまで“同じ事を繰り返して”放送します。日本人は悲劇が好き、覗き見趣味等で“程度が低く”TV番組もそれなりに合わせているのだと聞いていましたが、どうも違うのではないかと思うようになりました。
 海外の“支局長”が何度も呼び出されますが、特に変わったことは言いません。何かあるたびに人質の家族が登場しますが言うことは決まっています。“うちのガキのことはほっといてくれ”とでも父親が言えば“ニュース”ですがそんなことはありません。視聴者は本当にこんな報道を見たがっているのでしょうか。私はこれらの報道内容を見ると、外信部、国内の社会部等が“予算を沢山”“人も多く”と競争し、存在感を示すために意味がなく、無駄でコストが高い報道をやっているように思います。これは“縦割りの内部の論理”で“供給者の都合”の押し付けです。他の産業ではお客さんの真の利益になる安いサービスを提供できないと衰退するのみです。
 30歳台の連中は新聞を購読しなくなって、ニュースはTVでと言っていましたが、今はパソコンの方が便利で早いといいます。外地ではNHKしか日本語放送はなく、番組が急にニュースになると怒るだけですが、日本へ帰れば有線TVは40以上のチャンネルがあります。TVも生きる道を真剣に探さねばならない時代に入ったのではないでしょうか。







 
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