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2006年1月1日 VOL.49

 

 

『樋口一葉の手紙教室 通俗書簡文を読む』
著者:森まゆみ  出版社:ちくま文庫

板井 敬之 
 この本は、樋口一葉が手紙の書き方の実用書として著わした『通俗書簡文』の中から、著者が約半分を選んで現代語に訳し、解説を付したものである。
一読してまず一葉女史の文章の達意さ、候文の流麗さに感嘆する。音読をすると、更にそれが実感できる。次にさすが小説家だけあって、手紙で想定しているケース・場面の豊富さ、面白さに引き込まれ、更には明治20年代の東京における人々の暮らしぶりや習慣、たとえば当時は手紙を人に持たせて届けたこと、ものを贈られた場合、使いの人を待たせてその間にお礼状を書き、しかも“お移り”と称して然るべきものを「お返し」(何もなければ半紙が多かったとのこと)に持たせたことなどが分かって、面白い。
底本から、読者が興味を持つであろう「手紙」を選び出す選択眼、的確な現代語訳と“簡にして要”なるコメント、そして何よりも一葉女史に対する著者の深い敬愛の心根が素晴らしい。
 明治以来、我々が得た生活上の利便は大きいが、失ったものも同等以上にあるのかも知れない。「あとがき」によれば、一葉女史は、僅か5年半しか公教育を受けていない由。優れた作品を残したのは、本人の才能や感受性によるが、針仕事等の合間に勤しんだとされる古典や和歌の持つ力を感じさせられる。なお、この本は丁度「年始の文」から始まっていて、正月休み向きなのかも知れない。



『甘え・病い・信仰』
著者:土居健郎    出版社:創文社  2001.3
堤 貞夫 

 この本は、「甘え」の構造、の名著によって、日本人には当たり前に思われるこの感情の概念を心理学者として取り上げ、日本人の特徴を見事に説明された土居健郎先生が、長崎純心大学で最近行われた3日間の連続講演を、質疑応答も含め一冊にまとめられたものである。
 最初の本のベストセラーぶりは、例えば私の持っている「甘え」の構造の本は昭55年版だが、昭46年初版以来10年間で実に124刷と奥付にあることからも分かる、というものである。
 土居先生は、日本語で「甘える」という言葉が欧米語には存在しないことに気づかれ、そのことから日本人の特徴である、もたれあいの感情、習慣、の源泉に「甘え」の概念があるという構造と、適度の「甘え」が人間の信頼関係の基礎にあることの意義を解き明かされたのである。
今度の本は大学における講演なので、土居先生のお話とともに思想の歴史をたどりながら、改めて分かりやすく「甘え」を理解することが出来る。初版以来35年を経た現在、「甘え」の概念は世界的にも広く受けいれられ、人間に共通の感情として通用するようになったが、一方、日本の最近の社会事象から推量すると、前提としている環境が大きく変化してきているのではないだろうか、これが現代の最も危険な徴候であると、今回の講演で指摘されている。
つまり、個人の自立が強く求められ、お互いにもたれあっていることは悪いことだという感覚が強くなりすぎた結果、ぎすぎすした短期成果主義に偏ったり、甘えが成立しない関係が、幼児の虐待などの社会的病理現象の原因になっているのではないかということである。
本来、「甘え」の基本には、母親に対する幼児の甘えと同じで、基本的な信頼感が根底にあるので、普通に甘えそしてしつけられて成長することがその後の健全な人間関係を作るのである。
ところが、「甘え」の経験を持たずに成長した母親は、自分の子供が甘える根本が理解できず、甘える子供が我慢できないために、対極にあるねたみの感情に転化し、子供を虐待する。
学校におけるいじめ、企業でのおもねり・へつらいが増えていることも、「甘え」が拒絶される結果、ひずんだ形で感情が出てくる現象である、と説明される。
これに続いて、最近多くなっているこころの病気は、医者に対する甘えを自ら拒否するという人間関係、すなわち、親子関係に甘えとしつけの経験がないという欠陥がある結果であること、信仰の中にある甘えについて、など、興味ある説明がなされている。
精神医学を通じて、現在の人間関係の病弊にすこし近づいたように感じられる本です。



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『シンガポール便り(7) 少子化の課題、私の提案』
岡田 桂典
私の会社の秘書嬢は母親が5人兄妹、自分は4人姉妹で一人だけシングルなので非常に忙しいのです。従兄弟が交通事故にあった、叔父さんが入院する、おばあさんが病気になった、甥を土曜日に水泳学校に連れて行く、何かの家族の会合の準備といった具合で走りまわっています。ところがこの“麗しき家族愛”の世界は続きそうにありません。この国の出生率は急激に下がって1.2を切っていて、まもなく1を切るかもしれないからです。これは新しく生まれる子供は一人っ子という未曾有の世界が迫っていることを意味します。
一人っ子の先進国は中国です。1980年ごろから始まり、いまや一人っ子が9000万人、最長年齢は25歳になります。一人っ子には兄弟姉妹がいません。将来付き合いたい甥・姪もいないのです。一人っ子の次の世代になりますと親類縁者はいなくなり、両親二人、祖父母四人の計六人にとってたった一人の血のつながる子供になります。この人たちが結婚すると、なんと両方の親、祖父母合計12人の面倒を見なければならないのです。
日本も同じようなもので、東京では出生率は1.0を切って一人っ子の世界になりつつあります。他の地方も時間の問題でしょう。ところで、日本政府は少子化を労働力不足、税金や社会保障負担者の減、自衛隊員・警官不足の問題くらいにしか考えてないようです。しかし、私は「少子化の本質は老親の面倒を誰が見るのか」の重要な問題だと強く主張したいと思います。すでに60歳以上の人口が20%を占めます。この年齢の人たちの子供は2人くらいです。しかし、遠くに住んでいたり、昔と違い晩婚で、30歳の時の子でも親が80歳で腰が動けなくても50歳、まだ彼らは自分たちの生活で一杯でしょう。30年後くらいに始まる一人っ子が12人の面倒を見る時代にならなくとも、もうすでに子供たちにとって親の世話はまず無理だと考えたほうが良いと思います。
ではどうするか。日本政府は破産状態で、無いものねだりは出来ません。社会保障費全体を減らしつつも増税が必要な状態です。解決策は、不満はありますが自分らの年金・健保の給付を削っても介護に回してもらう他は無いと思います。人々の最大の不安は如何に死ぬかです。動ける限りは自己責任です。しかし人生の終焉を迎えたら、気持ちよく安らかに時間をすごせると保障されれば、“終わり良ければすべてよし”でこれ以上の幸せは無いと思います。
ホリエモンさんは“若い人は選挙の投票に行かない。いざ行ったら現行の制度は一変する”といいました。今の制度では世代間戦争は必然だと思います。そうなる前に、自分たちの責任と決意で「給付の重点志向」を強く提議したいと思います。



『アメリカ便り(号外) キリスト教と進化論(判決)』
濱田 克郎
 前回のアメリカ便りで、インテリジェント・デザイン(以下IDと略称)を学校の生物の授業で教えることの是非が裁判で争われていることに触れた。‘05年12月にこの判決がだされた。もう既にご存知の方もおいでかもしれないが、今のアメリカの状況を描写する材料の一つとして示唆に富む面もあると思うので、(号外)としてお知らせしておきたい。因みに判事は2002年にブッシュ大統領に任命された連邦地裁判事で、共和党から下院議員選に立候補したこともある人である。
 判決の骨子は、“ID導入にかかる教育委員会の真の目的は公立学校においての布教であり、教会と行政との分離を定めた憲法違反である”というものである。判決はここに止まらず、IDが科学といえるかどうかの検証も行い、“神学論の一つではあるかもしれないが、科学ではない。宗教的見方の一つとして尊重するにしても、公立学校の科学の授業からは排除すべきである”とし、更には“IDは宗教的な見方であり、天地創造説のラベルの張替えに過ぎない”とまで看破(?)している。“このような法律の大渦に巻き込まれ、結果的に金銭的・人的無駄に繋がるようなことよりもっと良いことがドーバーの人々には相応しい”との表現もある。判決に必要な吟味以上に踏み込んだ内容となっているのはなぜだろう。
 ジョージア州では生物の教科書に“進化論は仮説であり事実ではない”というスティッカーが貼られ(係争中)、カンサス州では学校で進化論に疑問を投げかけることが求められ、オハイオ州では進化論を批判する授業案が採用された、というようなここ1-2年の動きだけではなさそうである。実は、この裁判の真の敵役はドーバーの教育委員会ではなかったらしい。全米でIDを推進しようとしているミシガン州のキリスト教系法律事務所(被告側の弁護人を無料で引き受けたらしい)が、“IDの憲法判断のテストケースとして試す為に、ペンシルバニア州のドーバーの教育委員会を焚きつけてIDを採用させて裁判に及んだ”というのが判事の見立てである。
 連邦地裁の判断とはいえ、この案件はペンシルバニアの小さな町のことに限られたものでありそれ以外には拘束力はないが、このID論争で裁判所、生徒、父兄、学校等がこれ以上無為な争いに巻き込まれないようにとの判事の思いが伝わるような判決文である。
 因みに、上訴はされそうにない。敗訴した被告は教育委員会であるが、先の11月の選挙でID派が一掃されたからである。
 原告の一人である母親の、教育委員会が決めたことでもおかしいことには立ち向かえば変えられるということがわかり勇気付けられた、という言葉が印象的である。



 
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