「団塊の世代」が、退職を控えオーディオとクラシック音楽へ回帰しているという。また、それをターゲットとして高級なオーディオ機器が販売され始めているし、LP時代に名演奏と言われたクラシックの名盤もCDで続々と復活している(小生もそのターゲットの生贄となってしまった)。
クラシックの名盤と言えば、指揮者として最も偉大と言われているのがフルトベングラーであろう。そして、現代人に最も有名なのがカラヤン。フルトベングラーはベルリン・フィルの首席指揮者として、ナチの時代をヒトラーに抗して生きたが、その後任を狙ったのがナチ党員でもあったカラヤンである。どちらも音楽家ではあるが、フルトベングラーが芸術家であるとしたら、カラヤンは事業家だ。
この二人のナチ時代から終戦後におけるベルリン・フィルの首席指揮者を巡っての闘いを描いたのが、この本である。フルトベングラーには宣伝相ゲッべルスがつき、ゲッべルスに対抗する形で空軍相ゲーリングがカラヤンを推す。権力闘争の具にされ、すぐれて「政治の世界」でもある。ヒトラーはフルトベングラーの偉大さに岡惚れするが、フルトベングラーに袖にされるものの、彼の音楽家としての価値には未練がある。そこへ出世欲に駆られたカラヤンが取り入ろうとするが、格が違う。
ヒトラーに抗したため(と言うより、それを利用した政治闘争)により、ゲシュタポ長官のヒムラーからウィーンに滞在していたフルトベングラーの逮捕命令が出される直前(既に44年の12月には、ナチスで一番の知性派の軍需相シュペーアから亡命を勧められていた)、45年1月30日早朝、彼はスイスに亡命するためウィーンから逃亡を図る。しかし、海外渡航許可書に最終責任者のサインがない。オーストリアの検問所の若い検査官はサインがないのを知っていながら、「フルトベングラーさんですね。お元気で」と言って出国を認める(本書では、スイス側が入国を許可すると書いてあるが、最大の難関はドイツ側の検問所の通過あり、この事実‐エピソード‐にこそ語る価値がある)。
ドイツ敗戦後に、二人の非ナチ化審査が行なわれ・・・。ファシズムとナチに徹底抵抗したトスカニーニの反フルトベングラーの言動など興味は尽きない。ナチの台頭とともに亡命した人たちは、ナチ下で演奏活動をしていた者に厳しい。しかし、ドイツで残っていた(いて苦労した)一般の人達は、逆に、それなりのポジションにいて亡命できた人、亡命した人に対して心情的な反発を懐いていた。フルトベングラーは復活するが、その期間は短く、54年にフルトベングラーの死とともに、策士カラヤンはベルリン・フィルの首席指揮者になる。その後は、派手なパフォーマンスとビジネスセンス、さらに自分を脅かす者は排除し、「帝王カラヤン」として君臨、音楽界を牛耳るのだ。名誉、地位、そしてカネの総てを手に入れる(死亡時の遺産は4億ドルとさえ言われている)。
「棺覆いて名定まる」と言われるが、フルトベングラーが死して50年余り、カラヤンが亡くなり20年弱である。すでに「カラヤン」のCDにはかつてのようなブランド力はない。音楽家として才能の勝負は「歴史によって審判される」と思うが、もう勝負はついているのではないかと感じる。
この本は二人の音楽家の暗闘にとどまるのではなく、ナチ時代から戦後にかけての政治の世界、政治と藝術との軋轢、それを巡る様々な人間模様を描いた好著である。そして、音楽の世界も聴くだけの楽しみではなく、読む音楽の世界も面白いことを教えてくれる。
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