2000年の米国大統領選挙では、共和党のジョージ・ブッシュ候補と民主党のアル・ゴ ア候補とが接戦を演じた。特にフロリダ州(ジェブ・ブッシュが州知事)ではたぐい
まれな接戦となり、投票数の数え直しが必要となった。紆余曲折を経た後わずか53 7票差でブッシュ候補が勝利したとされ、これによりブッシュ候補が米国大統領に選
出された。
しかし、その後のいくつかの機関の調査により、この結果には疑義が生じることと なった。犯罪歴があるとされ投票権を奪われた人のうち約12000人は犯罪歴がないに
も関わらず“間違って”投票権を奪われたこと、不在者投票のうち1500票以上 (多数が海外駐屯の兵士)が集計されていなかったこと等である。当該有権者は黒人
やマイノリティー、貧困層が多数を占めるため、これらの“間違い”がなければ大統 領選挙の結果は異なっていたのではないかといわれている。
時は移って2012年秋。大統領選挙、連邦上下院選挙、各州の地方選挙の真最中であ る。ひょっとしたら2000年のフロリダの“出来事”のときより大きな影響を与えそう
な“企み”が全米規模で進行しているようである。
(因に、日本では20歳になればいわば自動的に選挙権を得ることができるが、米国で は選挙権は有権者登録を行った18才以上の米国民に与えられる。選挙できる権利を得
ると同時に、裁判での陪審員になる義務も生じるため、有権者登録を行わない人もい る。)
2012年の春、私の住むペンシルベニア州で選挙関連の法律が成立し、選挙権を行使す るにあたり写真付きの政府発行身分証明書の提示が義務づけられるようになった。
2010年秋の選挙で勝利を収めた共和党の州議会と知事とが電光石火で成立させたとの ことであるが、選挙権のない私としては正直ひとごとでしかなかったし、多くの人も
さほど重要なこととは考えていなかったように思う。
しかし、州憲法違反として訴訟が起こされるようになった夏以降この法律の問題点が 具体的にあげられるようになり、全国版のメディアでも取り上げられるようになっ
た。地元紙によると、ペンシルベニア州の有権者820万人のうちこの法律に定める (極めて厳しい。例えば学生証は不可)写真付きの政府発行身分証明書を持っていな
い人は76万人、約9.3%と推計されるそうである。これらの人々を構成するのは、学 生、お年寄り、貧困層、身体障害者等が多く、かなりの割合で民主党支持者と目され
る人々である。これらの人々は、州の運転免許試験場に行って選挙用の写真付き身分 証明書を取得すれば良いではないかとされていた。しかし、お年寄りや身体障害者は
そこに出かけるのが難儀である、また貧困層には必要書類を用意する為の手数料や交 通費が負担になる、実際に手続きをしにいっても些細なことで難癖をつけられなかな
か取得できない、といったような事例が続々出てきた。“私は50年以上かかさず投 票をして来たが、今回はあきらめよう”というお年寄りの話も紹介されていた。
この法律が制定された理由は、選挙権の不正行為を防ぐため、というのが共和党と州 政府の表向きの口実であった。しかし、裁判が進むにつれいくつかの驚くべき事実が
明らかになってきた。過去、不正があり写真付きの政府発行身分証明書があれば防止 できたと言える事件は一件もなかったことを州政府の責任者(知事の任命した幹部で
選挙管理責任者)が認めた一方、州議会の共和党院内総務が州の共和党の集まりで次 のような発言をしているのが公になった。
“この法律-共和党の大統領候補ロムニー氏をペンシルベニア州で勝利させることに なる法律であるがーを成立させたことで、任務は達成された。”
選挙権行使の不正を防止することは目的ではなく、民主党に投票しがちな人々の選挙 権行使の抑圧を狙ったものであることを自白したようなものである。(2008年の大統
領選挙ではペンシルベニア州は民主党のオバマ候補が勝利) 他の州ではどうなっているのだろうと思い調べてみると、この数年間に多くの州で選
挙権行使を制約するかのような立法措置が次々になされていることがわかってきた。
2006年の中間選挙以前は写真付き身分証明書が必要とされた州は一つもなかった。
2006年にインディアナ州、2007年にジョージア州で法律が制定された後しばらくは大 きな動きがなかったものの、ティーパーティ運動が一世を風靡し、共和党が多くの州
で多数を占めた2010年秋の中間選挙後、2011年、2012年にかけて多くの州で同様の法 制化がなされ、現在(係争中で帰趨の確定していないものを含む)17州で法律が成立
している。これらの州は所謂バトルグラウンドと呼ばれている接戦州か共和党が多数 を占めている州である。その他、16州において身分証明書の厳格化が行われてい
る。
テキサス州では学生証は身分証明書として認めないが、銃砲所持許可証(多数が共和 党支持)は認めるといったように趣旨がわかりやすい例もある。
身分証明書の厳格化だけではなく、様々な企みが多くの州でなされているようであ る。例えば、アラバマ州、カンサス州、テネシー州等では有権者登録時に出生証明書
などの提示が義務付けられた。これらの証明書を入手するのは手間がかかるだけでな く手数料が必要なため、貧困層の選挙権行使の抑制につながっている、或はそれが目
的なのでは、ともいわれている。
二度手間を避けるため、有権者登録を投票日に同時に行う方法は多くの人に好評で あったが、メイン州、オハイオ州等ではこれらが行われなくなり、フロリダ州、テキ
サス州ではさらに集会所等での有権者登録の呼びかけや運動そのもの(婦人団体、貧 困層支援団体等で行われていた)を制限するまでに至った。
フロリダ州、ジョージア州、オハイオ州、テネシー州、ウェストヴァージニア州等で は不在者投票や事前投票の期間を短縮した他、教会の礼拝後になされていた日曜の事
前投票ができないように手続きを変更した。
多くの州で前科のある人でも罪を償った後必要な手続きをとれば選挙権の回復が可能 であったが、フロリダ州、アイオワ州では復権を困難にする制度にしたことにより、
数十万人の有権者の選挙権が影響されたと推定されている。
ニューハンプシャー州では学生や兵士をターゲットとしたといわれ、以前他の州に居 住していた有権者の選挙権行使を制約する法律が議会に提示された。共和党員である
議長はその立法の背景につき、ティーパーティの集まりにおいて次のような説明をし たことが公になった。
“学生や学校を出たての奴らは俺が若いときと同じことをするものだ。リベラルのつ もりで投票するってことさ。若い奴らがそうするってことはみんな知っているだろ
う。人生の経験もなくてただフィーリングで投票するってことを。”
さすがにこの法案は各方面からの反対を受け廃案になったが、共和党の選挙対策本部 の意向を受けた本音の吐露であったのかもしれない。
こうした動きと平行して、自党に都合の良いような選挙区の再区分も全国で行われて おり、その地図を見ると、かの有名なボストンのゲリマンダーも逃げ出してしまうほ
どである。2008年の選挙でオバマ大統領が勝利した後、“どんな手を使ってでもオバ マ政権を一期限りで終わらせることを最重要の目標にする”と共和党の選挙対策首脳
が檄を飛ばしたことも公になっている。
更には、ブッシュ前大統領が指名して就任したロバーツ長官を含め共和党よりのメン バーが多い最高裁の判決により、政治資金法が実質的に骨抜きにされたおかげで多数
の企業や裕福な人々が制約なしに政治献金ができるようになった。これにより、数百 億ドル単位での資金がテレビでのネガティブキャンペーンに費やされるようになり、
事実をねじ曲げた、誹謗中傷の限りを尽くしたテレビ広告が垂れ流される状況になっ ている。
これらのことが全米各地で進行しているのを知るにつれ、これがアメリカの世界に誇 る“民主主義”の一面かと思うと情けないというかアメリカの民主主義もこの程度の
ことなのかと思うと同時に、アメリカはエジプトのムバラクやロシアのプーチンを真 顔で責められるのかしらんという気もしてきた。
さすがに日本ではこういうことはないのだろう。こういう手を使わなくても選挙権を 自動的に取得したはずの若い人や無関心層は投票にいかないし、組織された投票者を
抱える政党に有利な状況はできているということかもしれない。選挙権の意味は無く すまでは、あるいは行使できなくなるまではわからないのかもしれない。
ところで、前述のペンシルベニア州の裁判については、地裁は合憲、州の最高裁は差 し戻しとなり、差し戻し審は進行中。ただし、有権者登録期限の一週間前になって
“2012年の選挙権行使についてはあまり期間がないので写真付き身分証明書なしで投 票できるが、今後については継続審議”となった。
しかし、州政府の対応は、“写真付きの身分証明書は必要ではないが要請はできる。
持ってない人は仮の投票はできるが期限までにいくつかの証明手続きをすまさないと 有効票として数えない”ということになっている。
この結果、前述のように“今度の投票はあきらめた”という有権者が多数であると報 道されている。共和党から見れば仮に裁判に負けても“任務完了”に変わりはないの
かもしれない。
追記)興味のある方は、アメリカ便り20“イデオロギーの時代?”(評論の宝箱2010 年5月1日)、アメリカ便り23“米国政情-旧聞”(評論の宝箱2012年4月1日)も併せ
てご覧ください。何かつながりが見つかるかもしれません。
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