■2010年10月15日号 <vol.164> 書評 ───────────── ・書評 石井義高 『サラの鍵』 (タチアナ・ド・ロネ著 高見浩訳 新潮社) ・書評 今村該吉 『寡黙なる巨人』 (多田富雄著 集英社文庫) ・【私の一言】 矢野清一 『「ガラパゴス化する日本」を読んで 』
2010年10月15日 VOL.164
『サラの鍵』 (タチアナ・ド・ロネ著 高見浩訳 新潮社)
第2次世界大戦が終わって65年、戦争体験世代も高齢になり、戦争の悲惨な実体験を今のうちに次の世代に伝えるのは重要な事であると思う。今年は新聞、テレビでも敗戦記念日前後には戦争にまつわる報道が沢山見られたが戦争の不条理は日本だけの事ではない。 1940年にドイツ占領下のフランスに誕生したヴィシー政権はナチス・ドイツに迎合する政策を積極的に推進した。1942年7月16日にはフランスの警察がパリとその近郊に住むユダヤ人13,152人を一斉検挙してヴェロドローム・ディヴェール(略称ヴェルディヴ)という屋内競技場に押し込め、ほぼ全員をアウシュヴィッツに送り込み、戦後、生還できたのは約400人に過ぎなかったという事件があった。 フランスではこの事件を国家の恥部であるとして長くタブー扱いして来たが1995年にシラク大統領がフランスの警察が行った事実を認め、国家として正式に謝罪する演説をして一般に知られる所となった。 この小説の作者リチアナ・ド・ロネは1961年にパリで生まれ、パリとボストンで育ち、イギリスの大学で学んだ後、パリでジャーナリスト、作家になった女性である。 彼女自身シラク大統領の演説まで「ヴェルディヴ」の事件を知らなかったが、知ってからは事件の実態解明と当事者探しを精力的に行い、この事件を広く知らせたいと云う熱い思いでこの小説を書いたと云う。 話は事件の被害者で奇跡的に生き延びたユダヤ人の少女「サラ」の悲劇的な運命の軌跡とアメリカ人記者ジュリアの執念深い事件究明の過程が並行して進行し、途中で全く意外な展開からこの二本の線がつながり、もつれ合い、息詰まるような終末を迎える。戦争によって破壊される市民の人生、肉親の深い愛情、逞しく自己を貫く女性の生き方など様々な内容を盛り込んだ読み応えのある小説である。日本語訳も良くこなれた読みやすい文章で、読み始めると置き難くなる本である。
『寡黙なる巨人』 (多田富雄著 集英社文庫)
壮烈な闘病記であり、またリハビリテーション奮闘記である。 著者は国際的に知名な免疫学者であり、また詩や能の分野でも活躍している。 氏に突然の病が襲いかかったのは,67歳、退官直後、これから自由の身で、したいことが出来る、と張り切っている矢先であった。金沢に旅行中一夜にして半身不随、言葉が出なくなり、口から食べることも、飲むこともできなくなった。脳梗塞にかかったのだ。 この書はそれからの涙ぐましい闘病、リハビリの記である。 人間は両足で立って歩き、また口から食事を採る。いわばそれは人間の尊厳、基本的人権である。ところが突然一言も話すこともできなくなってしまった。臨死体験をし、何度か自死も考えたようである。しかしながらそれからおよそ考えられないような不屈な精神力でリハビリを試みた。幸い頭脳はいささかも衰えていなかった。半年後、ある日、自分の足で地上を一歩くことが出来た。涙がとめどもなく両眼にあふれた。それは今までとは全く違った世界だった。これまでと違った巨人が生まれたのだ。筆者は「昔の自分が回復したのではない、もう一人の自分が生まれたのだ」という。 この本を読んでいくつかのことを教えられた。わずか1,2センチの高さでさえ足の不自由な人にはいかに困難であるか、わずか一滴の水でさえ自由に飲み干すことが苦痛であるか。 よく街中で、脳梗塞の後遺症で不自由な動きをしている人を見かける。こんな雑踏の中で、迷惑だと思わなかったことはなかったか。どんなに不自由でも歩くことがどんなにうれしいことか、理解しようとしたことがあったのだろうか。氏のように普段の健常者にもいつ病が襲うかわからない。自分の健康に気をつけることはもちろんだが、リハビリ中の人にも温かい眼差しを向けなければならない,と教えられた。また厚生行政の無理解と我々市民のボランティア精神の欠如も考えさせられた。 (氏は今年の4月前立腺がんで死去。享年76)
『「ガラパゴス化する日本」を読んで』 矢野 清一
講談社現代新書「ガラパゴス化する日本」吉川尚宏著を読んだ。 筆者は、先ず題名を見て、「日本がガラパゴス化して何が悪いのか。日本独自の文化や産業・社会構造があっても良いのではないか。」と反発を覚えた。途中で、何度も中断しながら、中途半端な読み方をしていた為に、著者の意図する所が、当初は良く理解出来なかったが、最後まで読み終えてみて、成程と、著者の考え方のかなりな部分に共感を覚えると言う結果となった。 現代社会では、全ての組織や企業は、効率性の向上や高利益を図ることが、当たり前のことになっており、このこと自体は別に悪い事だとは思わないし、特に異論を挟む心算はない。又、江戸時代のように鎖国化された社会であればとも角、現代社会のように、国際的な繋がりが高まっている社会では、日本だけが一人孤高を保つことには無理があり、その意味からも、本書の著者の指摘通り、日本はガラパゴス化から脱却する事は絶対必要だと考える。 ただ片方で、人類の歴史を振りかえり、人間社会を眺めてみると、この世の中、果たして、効率や利益を求めるだけの世の中で良いのだろうかと、ついつい考えさせられてしまう。特に、地球上のあらゆる資源は有限であり、経済成長のみを追い求めても、目先はともかく、何れは限界に達し、大昔の時代に全盛を誇った恐竜類が、隕石の落下によって滅亡したように、人類も、いや人類の場合は、外的な要因からではなく自らが求める経済成長の結果として、滅亡に至るのではないかと、心配する。 京大の松本紘総長が、<文芸春秋>本年7月号の誌上で、「地球上の人間には100億人程度という定員があるのでは」と警告されている。筆者の場合、学者先生ほど理論的な裏付けはなく、どうすれば良いのか良く分からないが、何か有限な資源をベースにした経済成長ではなく、新しい人間社会の発展成長モデルが見つけられないものかと考えている。 昔のままの生活や社会形態がそのままで良いとは思わないが、有限である資源を使い、経済的にも出来るだけ多くの人々の幸福を求めるとしても、せめて、余りにも性急な成長や結果だけを求めず、出来る限り多くの人が、精神的にも余裕を持てる人間的な社会の実現が追求されるべきではないかと考えてしまう。経済的な裏付けは勿論必要だが、「金が敵」の世の中ではなく、古来から連綿として最近まで伝えられてきている人情の機微や、謙譲の精神、互助の精神など、本来人間社会に必要なものを、今一度思い起こす必要があるのではないかと考える。勿論これに近い精神は日本や東洋文明だけでなく、西洋文明にも当然存在しており、洋の東西を問わず、こんな社会が実現できないものかと切望するものである。 又、更に、日本にはなくて外国に埋蔵されている資源に頼らなくてもよい何か新しいエネルギー源が、発見或いは発明され、しかもそのエネルギーを発生させる装置にも海外の希少金属資源などを使わなくでも済む究極の自然エネルギー製造装置などが開発できないものか。又、そのエネルギーを利用して、日本のような小さな国でも、十分な食料が国内で自給できるよう食料生産工場のようなものが発明されないものか。そういう時代が来れば、現在の国際的な紛争もなくなるかも知れないと、ついつい夢を見てしまう。 出来るか、出来ないか、全くの夢かもしれないけれど、せめて、こんな「バカげた夢」を、優秀な若い人たちによって、是非とも実現して欲しいものと期待している。(これも年のせいかな。)
株取引の言葉に”罠にはまる"という言葉があるそうです。現在でいえば今以上に景気低迷の可能性があるにも拘らず、「今がお得」とか「円高還元」という今までより「安く買える」という言葉に洗脳されて過度な投融資をすることのようです。 難しい時代だけに色々な罠が待ち受ける時代ですが、流動性の罠というのもあるそうです。日銀の今般の金融政策が流動性の罠に陥らず景気回復につながればいいのですが。 今号も多面的なご寄稿有難うございました。(HO)
2005/03/01
2004/12/01