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2005年12月15日 VOL.48

 

 

『科学哲学の冒険(サイエンスの目的と方法をさぐる)』
著者:戸田山和久  出版社:NHKブックス  2005年1月

新田 恭隆 
科学(自然科学)は実証をよりどころとする学問であって、その意味では思想性はない。そのような特質を持った科学を、もっぱら思弁によって事柄を追及する哲学で考えてみるとどのような科学感が生まれるか甚だ興味のあるところである。
読み始めると、科学で何気なく使われている用語の定義や方法論の説明、様々な科学上の概念の分析が次々に現れてくる。
始めの方に出てくるのは、科学を展開していくのに必要な帰納的推論の問題である。科学の研究は理論的な考察を実験によって実証して進められるが、実験は有限回しかできないから、実験で確かめられたからこの理論は正しい、という帰納的な方法は合理的な根拠に欠けるのではないか、という疑問が出てくる。常識的にもその通り何かおかしいという気がする。これは、十八世紀イギリスの哲学者ヒュームが考えたことで、未だに未解決の問題らしい。この本は、このようなことをああでもないこうでもないと考えながら、次第に科学が対象とする物質は実在するのか観念的産物なのか、といった(多分)科学哲学の基本的問題の山へ分け入っていく。
大学生リカちゃんとテツオくん(とセンセイ)の対話仕立てで話が進められており、「ちょっと背伸びした高校生、そして大学1,2年生のための科学哲学の入門書」ではあるが、正直に云って哲学的な思考に慣れていないものにとっては読み進めるのが結構しんどい。だが色々な考え方のあることは良く分かるし、中には意表をつく驚くような理論もあって、とにかく科学について様々な見方があることを知るのは、それはそれで十分に好奇心を満足させてくれる。
最後の方でリカちゃんとテツオ君との結婚が暗示されて科学哲学の成功を連想させるが、前途はなかなか厳しいのではないかというのが私の感想である。



『演歌のススメ』
著者:藍川由美  出版社:文春新書
福島 和雄 

日本では西洋クラシック音楽を崇拝し、自国の音楽を見下す風潮があるが、そろそろ日本人も、明治以来の音楽教育で植え付けられた西洋音楽コンプレックスから脱却する必要があると著者は言う。少数ながら日本人としての美意識や音楽的伝統を基盤に、西洋音楽至上主義と闘ってきた中山晋平、本居長世、古賀政男、古関裕而らの作曲家、野口雨情、北原白秋、西条八十らの作詞家を紹介している。
 彼らが作曲した主な歌は中山晋平(ゴンドラの唄、砂山、背くらべ、あの町この町)本居長世(通りゃんせ、てるてる坊主)古賀政男(丘を越えて、誰か故郷を想わざる、東京ラプソデー、人生の並木道)古関裕而(船頭可愛や、愛国の花、長崎の鐘)などである。
著者は音楽をクラッシクとポピユラーに分類することには無理があると言う。
その端的な例として昭和11年の「国民歌謡」から戦後の「ラジオ歌謡」に至るNHKの歌番組がある。NHKは当時の主要な詩人や作曲家たちに歌の創作を依頼し、新しい作品を放送した。その作品をクラッシクとポピユラーに分類するのは不可能であると著者は言う。私の好きな「国民歌謡」は「椰子の実」「空の神兵」「花の街」等で、ラジオで聞いて覚えた。
 古くから異文化を消化吸収して、新しい文化を創造することに長けていた日本民族は、明治以後西洋音楽の作曲法を取り入れて「唱歌」「童謡」「新民謡」「歌謡曲」といった新しい日本の歌のスタイルを築いてきた。こうした日本の歌の数々は国際的な競争力を備えていると著者は言う。これを認めようとしないのは外国人ではなく、むしろ日本人側であるが、無益なクラッシク音楽コンプレックスにより、明治以来先人の築いた音楽作品を忘れ、捨て去られることだけは阻止したいというのが著者の結論である。
 著者の藍川由美さんは香川県生まれで東京芸術大学院卒のソプラノ歌手で中国、オーストリア、アメリカなどでも出演し、1985年のカーネギーホールでの独唱はNYタイムズで高く評価された。1992年文化庁芸術祭賞を受賞した。東京でも最近年に数回上野文化会館で「日本の名歌」独唱会に出演している。私も毎回聞きに行っているが戦前・戦中・戦後の唄20数曲を歌詞も見ないで歌うのには驚いている。



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『アメリカ便り(7)―― キリスト教と進化論』
濱田 克郎
ペンシルベニア州の中央南部、ゲティスバーグの近くにドーバーという小さな町がある。この小さな町が、全米の注目を集めている。
町の教育委員会が、町立の学校の生物の授業で“インテリジェント・デザイン”−(生命の創造には人知で計り知れない理性の力が働いたと説明する考え方で、聖書に基づく天地創造説とは違うとされている)以下“デザイン”と略称−を教えるべきだ、と昨秋決定したのに対し、父母がそれは宗教との分離を謳う憲法違反であると提訴したのがその始まりである。(判決は12月の予定)
“デザイン”を学校の授業で科学として教えることに反対の立場の人たちは、8人の対立候補を擁立し11月の教育委員選挙に臨んだところ、全員当選し“デザイン”支持派の委員を駆逐してしまったのが第二幕。これは、過半数の確保を狙っていた“デザイン”反対派の人たちにとっても驚きだったらしい。これで更に全米の注目を集めた。
これに怒ったのが、かのパット・ロバートソン師である。最近ではヴェネズエラの大統領の暗殺を示唆して世界中で有名になったし、9.11事件の時には、ホモ、堕胎、フェミニズムへの神からの天罰であると宣った方である。彼のテレビショーで、“ドーバーの人々よ、あなた方の町に災いがあろうとも神の助けを求めてはならない。なぜならあなた方は神を自らの町から追い出したからだ。神ではなくてダーウィンに助けを求めなさい。”とぶったのである。これが第三幕。
“デザイン”は聖書に基づく天地創造説とは違うとして推進していた人々は当惑していることであろう。学校の科学の授業で“デザイン”を教えることを拒むことが神の否定だと主張されると却って困ってしまうのである。なぜなら、“デザイン”と聖書に基づく天地創造説とが、なんだ、同じではないかと思われてしまいかねないからである。
話を宗教問題と捉えるとややこしく見えるかもしれないが、単に、自我の強い人が自説を“神”の名をかりて都合よく押し通そうとしているのかも、とみればより本質が見えてくる。どの宗教でも、大上段に“神”を振りかざす人によくある話である。一種の公私混同かも知れない。




 
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