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2007年3月1日 VOL.77

 

 

『戒老録』 
著者:曽根綾子    出版社:祥伝社文庫

片山 恒雄 

 著者は、37歳の誕生日を迎えたとき、自分はこれから人生の後半期に入るのだと考え、一念発起して本書を書き始めたという。
 ところで、老人になると、人はわがままになったり、時には怒りっぽくなったり、いたずらに昔は良かったと懐かしんだりする。しかし、自分では老人特有の兆候に気がついていない。それだけに、分別盛りの40歳前後の視点で老人を観察して書いた本書には、老人になってからでは気のつかない客観性が認められ、私自身も、自分の戒めにしなければならないと痛感する。
 例えば、本書の冒頭に、次のような文章がある。
 「他人が何かを『してくれる』とか、『くれる』ということを期待してはいけない。そのような受身の姿勢は、若いときには幼児性、年をとってからは老人性と密接な関係を持つものだからである。」と書き起こし、「『してくれる』ことを期待する精神状態は1人前の人間であることを放棄した証拠である。」そして「放棄するのは、自由だが、1人前でなくなった人間は、精神的にも社会に参加する資格も失い、ただ労わってもらうという1人前の人間にとっては耐えられぬ一種の『屈辱』にさらされるものと自覚すべきであろう。」と論断している。
 この様に、老人の陥りやすい陥穽を次々と指摘していくが、一方、戒めもあげていることに特色があり、非常に参考になる。
しかし、本書で一番素晴らしいのは、“あとがき”である。
「私は、このごろ晩年における4つの必要なことは、『許容』と『納得』と『断念』と『回帰』であろうと思うようになった。すなわち、この世に起こりうるすべての善も悪も、何らかの意味を持つと思えることが『許容』であり、自分の身に起こったさまざまのことを丹念に意味付けしようとするのが『納得』である。また、望んでも与えられなかったことがどんな人間の生涯にもあり、そのとき執着せずにそっと立ち去ることが出来れば、むしろ人間はふくよかになりうると思えることが『断念』である。そして、『回帰』は、死後どこへ還るかを考えることである。死後は無でもいいが、還るところを考えないで出発することは愚かしい。」
この含蓄に富んだ4つの言葉を、反芻する機会を与えられるだけでも、本書を読む価値は大きい。



 
 

 

 

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『6カ国対抗ラグビー』
川井 利久
 冬のヨーロッパの暗いムードを吹き飛ばす毎年の熱戦は試合はもとより、観衆の反応を含めて、ヨーロッパと言うものを観察する生きた民族史学の一端を見ることが出来ると言っても過言ではないであろう。
 先ず6カ国の構成はイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、イタリアである。各国の人口構成を見るとイングランド、フランス、イタリアが断然多く5千万人以上であるのに対して、ほんの数百萬人の人口で10〜20倍を超える国に対して一国を主張してチームを編成して毎年立派に成績を上げている、いずれもケルト民族のスコットランド、ウェールズ、アイルランドの頑張りには驚かされるし、その背後に征服された、アングロ・サクソンに対する強い反発が闘志となって、ゲームを面白くさせてきた。また比較的新しく参入してきたフランスやイタリアもラテンの熱い血でアングロ・サクソン打倒に燃えるのである。中世〜近代のヨーロッパ史を彷彿させるような戦いが毎年ラグビーの形を通して行われるのである。
英国政府も為政者の常として、この対抗戦を一種の異民族の不満のガス抜きに利用している風にも見える。今年はフランスが優勝したが、アイルランドがイングランド、スコットランド、ウェールズに勝ってトリプルクラウンを獲得して大いに溜飲を下げた。たかがラグビーのせめぎ合いであるが、狭いヨーロッパを舞台に長年しのぎを削ってきた諸民族の民族感情が剥き出しに観衆も選手も表して、面白い。
 愛情、憎しみ、駆け引き、同情などの人間感情がるつぼとなって、競技場がヨーロッパ史の社会科学的な問題を数多く提起する。
 ヨーロッパ世界はローマ帝国崩壊以来、多民族のせめぎ合いのなかで中世から優れた近代文明を創造してきた。その陰には踏みつけられた多くの民族が苦しんできた。アフリカ、アメリカ大陸の植民地化がそれである。
 これからの世界をリードしていくのはアメリカや中国であろうが、他の民族を収奪するようなリードはもはや認められない時代である。
 これからの世界は国際化が益々促進されて民族間の接触が軋轢〜切磋琢磨となって各国を揺さぶるであろう。島国の日本はそういう環境のはなれていないうぶな国民であったが、これからはこす辛い多民族の駆け引きに耐えうるタフな民族に変身する必要があると思われる。それには子供の時からしっかりした個性の確立を意図した教育が必要であると考える。




『東京一極集中は亡国の元』
( 評論の宝箱74号 新田 恭隆(氏)の“田園まさに蕪(あ)れなんとす”をよんで)

立石 武士

アメリカの国土は広大であり、企業の本拠が点在していて当然だと思いますし、各企業の由来は知りませんが、元々、先住民を追っ払って取り上げた土地ですから、その土地への思い入れは日本の比ではないはずです。ましてや、その土地で『アメリカンドリーム』を実現しようとして必死に頑張ってきたのですから、企業発祥の地を離れることは、余程のことがない限り有り得ないことではないでしょうか。
従って、日本とは違って、現在でも各地に点在していることは、容易に理解できます。しかも、通信網が発達しているわけですから、わざわざ特定の場所に集中する必要は無い筈ですし、仕事のやり方が日本と違っているのでしょうから、「フェース・トゥー・フェース」でないと話が進まないということは有り得ないのではないかと思います。要するに、国情の違いが現状を規定していると思います。更に、アメリカもそうですが、日本は特に『国家独占資本主義』の最たる国であり、『資本』が『国家』を利用して金儲けを企んでいるわけですから、『国家』の近傍に本拠を置いておきたいのです。それにしても、こんな狭い国土ですから、何か用が出来れば直ちにすっ飛んでくることが出来るわけであり、色んな情報を入手することは極めて容易だと思われます。
にも拘らず、「一極集中」の如き様相を呈しているのは、日本の旧来からの、例えば、「直接取引」ではなく「商社を通す」という商慣行により、情報入手経路が限定されていたことに発しているということではないかと思います。本拠が「東京」にあるということが、ステータス・シンボルであり、スタッフも集め易いなどということは、旧式の考え方だとは思いますが、現実はどうしようもないということでしょうか。『格差』の実態を知らず、しかも選挙地盤になんて住んだことも無い安倍総理を初めとする二世三世なんかがリーダーをやっている間は、現状は、解決されることは無いでしょう。
江戸時代に全国各地に相応の偉人・賢者が輩出していますが、今の時代のようであれば東京に集中しているはずです。しかし、現在でも、夫々の地に偉人・賢者・知者は数多くおられるようですから、時至れば、必ず、各地は活性化すると信じています。
以上、新田氏の“田園まさに蕪(あ)れなんとす”を読んで普段から思っていることを一言述べました。



 

 
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