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2006年5月15日 VOL.58

 

 

『無念の戦後史』 
 
著者:西部邁   出版社:講談社

稲田 優 

 東大教養学部教授から評論家、思想家として言論界で活躍している西部邁の、自分自身の年譜に合わせた戦後史である。
 大東亜戦争から昨年までを時系列的に、34の表題をつけ、各時代の世界の出来事と日本の歩みを検証した。西部邁フアンなら“誰も書かなかった告白的戦後史”という本の帯のような読み方でも楽しめるが、なにかおかしいと感じる今の日本、その原因とあるべき姿を丁寧に解説している。
 考え方の基本は、戦後アメリカの画一的、短絡的な独特の社会規範なり、経済観の成り立ちと問題点に焦点をあてる。そして日本は、そのアメリカの価値観に侵食され、徐々に無批判にアメリカイズムを受け入れ始めて、時には進んでこれを受け入れ、自ら平衡感覚を喪いつつあると指摘する。
 社会の目標を、物質的幸福と社会的平等においてしまったことの帰結が現在の日本の社会であり、その上、社会主義者が“市民主義者”に転向したことから派生する問題もあるとの指摘は新鮮である。「価値・個性とはその人の立場、考え方、気分および状況に応じて様々であるし、あるべきだ」という説は、結局のところ、自己についてのアブソリューティズム(絶対主義)に転落する、そしてそれをエゴイズムという。エゴイズムを公然と唱えたという意味で、ポストモダニズムの実態はウルトラモダニズムであった、とする。
 
またこの本では、日本の経済に対するガヴァメント(舵取り)は、ガヴァナンス(集団の統治)を弱いものにするという過ちをおかしていると指摘する。読んでいる
うちに今月から施行されたわが国の「会社法」の新規定に思い当たった。
アメリカ1国だけの動きに追随しただけと思える、会社経営者にたいする度の過ぎた監視体制の強化に、首をひねる実務家は多い。
 さらには、現在の日中問題を分析し、今の中国人の精神的価値は愛国=反日=正義の観念で国民が統合されているとの根深さを指摘し、「そうと見通せば、日本の国家がなすべきは、あの大東亜戦争についての謝罪ばかりではないはずです。あの戦争の「真実」について日本国家は語るほかないのです」と説く。
 一考に値する論陣と思われる。




 
『花と龍(上)(下)』
著者:火野葦平    出版社:岩波現代文庫
新田 恭隆 

 この小説は、左腕に菊の花を掴む昇り龍を彫り込んだ男とその妻との一代記で、明治35年、日露戦争直前の時代から物語が始まる。男は伊予松山の山奥から、女は広島県の奥深い山地から共に門司へ流れ着き、文字通り裸一貫から出発して波乱万丈の生涯を送ることになる。二人共仲仕で(女仲仕もいた)それを一生の仕事とした。沖仲仕という言葉は昔から余りよいイメージではなく知っていたが、登場人物の仕事は主として北九州若松港における石炭の積み込み作業である。明治の後期から昭和の前期にかけて、筑豊炭田や八幡製鉄所などが繁栄を極めた時期の北九州一帯のワンワンとうなるような様子は容易に想像できる。その中での仲仕の仕事、過酷で搾取されて暴力団に介入される世界で、玉井金五郎は妻のマンと共に沢山の仲仕たちのために体を張ってたたかい抜く。いくら戦前とはいえこのような滅茶苦茶なことがあったのか知らないが、著者自身が「尾鰭が多少はついているけれども骨子はすべて事実にもとずいている」と書き残している。
 兼ねたから「花と龍」を読んでみたいと思っていたが、意外にもそれが岩波から文庫新刊として出た。火野葦平(芥川賞受賞)といえば、「麦と兵隊」など戦時中の従軍小説で有名であるが、実は玉井金五郎の長男で彼自身玉井組の親分であった時代もある。火野葦平が父の鎮魂のために書いたものだと私は思う。
 しかしながら、とにかく面白いことも事実である。手に汗を握る場面も度々出てくる。このような時代がまた来るとは思えないが、男が生きていた時代であった。





ご要望にお応えして、ジャンルを定めない自由評論コーナ ー【私の一言】を設けました。 評論の評論はもとより、社会評論等自由なご意見をお届けします。

『公平と人権』
川井 利久
 最近、格差社会という言葉が頻繁に使われ、現実に所得格差や地域格差が顕在化している。一流大学えの入学が高額の塾なしでは難しかったり、就職出来なかった人がフリーターとなって、業務内容が正社員と同じでも待遇に大きな格差があって、努力をしても、正社員の道は開かれていないとか、不公平な現象が蔓延してきている。
 このままでは、社会は活性化を失い、国力が低下して行くだろう。
人間の平等と人権の確立は近代市民社会の成立の基本であって、これを実力で獲得した国はフランスやイギリスなど数少ない。あとの国は制度輸入が多く、我が国もその一つである。従って各個人が公平の観念と自己の人権の尊厳に強い意識を持たないまま社会に参加して、弱肉強食の社会を許しているのが現状ではないか。
 最近フランスで起こった若年労働者失業対策法案に対する大規模なストは、国民一人一人に公平と人権に対するしっかりした感覚が根付いているからこそ成功したよい例である。今の日本の若者にそれがあるか?国民にそれがあるか?
 際限のない深夜に亘るサービス残業に疲れ果てても、リストラをおそれて黙って耐えているサラリーマン達、家庭は父親不在の甘やかし体質。もちろん資源のない日本で国際競争力を保てるのは、勤勉な国民性に違いない。
しかし人間の生きる基本的人権を蝕んでは、長期的に個人の幸福も社会の発展もありえない。企業も国も人権と国際競争力のバランス感覚を磨いて公平な社会と人権の確立に意を用いるべきである。それにはやはり個々人の公平と人権の感覚を磨かなくては、社会はよくならない。




 
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