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2006年6月1日 VOL.59

 

 

『この国のけじめ』 
 
著者:藤原正彦   出版社:文芸春秋社

後藤田 紘二 

 昨秋、新潮新書から“国家の品格”を著した作者が、この春、再び文芸春秋社から“この国のけじめ”と題する単行本をだした。前者が講演記録をベースにまとめたものに対し、後者は近時3年にわたって、文芸春秋や読売新聞、産経新聞などに掲載したエッセイを収集して刊行したものである。
 文体は異なるが同じ著者の時事評論、教育論、随想であるので、この二つの本は、当然内容的に類似している点が多い。類似の本を立て続けに出版したのはこの論客の主張が、時機を得たものであり、多くの読者から支持され、共感を得ているからに違いない。
 評論では総じて今のグローバリゼーション、規制緩和、わが国のアメリカ化を痛烈に批判し、為政者の国家戦略の不在を憂い、日本のよき伝統的倫理、道徳教育の必要性を訴えている。市場原理主義が横行し、会社経営でも安易なリストラが進み、伝統的な終身雇用や年功序列が押しやられているが、果たしてそれでよいのか、と疑問を投げかけている。
 わが国の社会現象に批判の目をむけ、教育問題でも小学教育に英語教育を取り入れようとすることの愚かさを主張する。国語力が低下しているのに これをなおざりにして英語にうつつを抜かす暇はない。もっと他にやるべきことがあるはずだ、と。文学、歴史、芸術、伝統などに理解を深めることのほうが肝要だ。祖国愛を重んじ、武士道の倫理道徳感を評価して、その精神と美意識が人類の普遍的価値となりうることを論じている。
 現在わが国は弱体化しているのであるから諸外国の狡知に翻弄されることなく真に長期的国家戦略が必要であることを訴えかけている。
 米国滞在経験を有する数学者のエッセイだけに説得力がある。近頃のマスコミの論調にいろいろと失望することが多い中で、この書物の健全な考え方にめぐり会い、日本もまだまだ捨てたものでないと思えた。爽快な随筆である。




 
『蒼龍』
著者:山本一力    出版社:文春文庫
岡本 弘昭 

直木賞受賞作家の短編傑作5編が納められている。いずれも江戸時代を背景とする小説で、町人、武士の世界が描かれているが、厳しい中にも後味がよい力作揃いと言える。
“蒼龍”は、オール読物新人賞を受賞した作品であるが、この内容は作者が文壇にデビューするまでの体験と夢とを重ね合わせた作品といわれており、作者の人生観が良く出ている。
この文集の巻頭に据えられているのが“のぼりうなぎ”である。腕のいい指物師が、一つのことに秀でていれば、畑が異なっても必ず頭角を現すということから、呉服屋の主人に見込まれ商いのイロハもわからぬ身で呉服屋の手代に成り、筆舌に尽くしがたい苦労・屈辱に耐えながら周囲の人間性や人情さらには本人の異業種体験の知恵に支えられ頭角を現してくる物語である。
“のぼりうなぎ”というのは、サクラの時期に大川を登ってくるうなぎのことであり、やわらかいがまだ小さい。明日のあるうなぎであり、この短編の最後は、主人公はこれを食べずに放流することになるが、まさに作者の人生観が描かれているように思える。
山本一力氏は、サインを求められたら必ず明日は味方と書くそうである。
時代小説にもいろいろあるが、この作者の作品には、いずれもその精神が流れており、読後さわやかさを感じることが出来る。また、同氏の作品は全体に、混迷の現代人に欠けている人間としての義理・人情を含めて人間性について多くのことを教えてくれるように思える。お薦めである。





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『アメリカ便り(10)―― ソーリーとごめんなさい』
濱田 克郎
 ローカルな新聞のスポーツ欄に、ヤンキースの松井選手の手首の骨折に関し面白い記事が掲載されていた。できごとそのものではなく、彼の談話についてである。骨折したこと、チームメートに迷惑をかけたことについて松井選手が“ソーリー”と言ったことは、アメリカのスポーツ選手の掟を破ったと微笑ましく茶化しているのである。いくらヤンキースのファンが厳しいといっても、彼が悪いわけではなく謝ることはないのにというのである(謝ったのではなく残念の意を表したとも取れるが)。例えば、アメリカ人の選手の“昨日の試合での行動については深く後悔している。試合がデッドヒートとなる中で、感情が自分を乗っ取ってしまった。バットを審判に投げつけることは正しいことではない。”という談話に見られる如く、決して心から謝らず、しかもエージェントが周到に用意した紙切れを読み上げるのがアメリカのスポーツ選手の掟であるのだそうである。この違いは日米の文化の違いによるものだろうかと、このコラムニストは書いている。
 よく、アメリカでは“交通事故や、他人とのトラブルに遭遇したとき、決して相手より先にソーリーと言ってはだめだ”と言われる。たとえ自分に落ち度がなくても自分の非を認めたことになり、裁判を含め後々不利に働くからだそうだ。実際、仮に自分に非があっても、自分は悪くない、相手が悪いと非難する弁舌能力は政治家に限らず殆どの人が身につけているようにすら思える。他責の文化と言えるかもしれない。ディベートで相手を負かす為には論理的にはともかく、徹底的に相手を非難するよう訓練された人もいるかもしれない。裁判で“この人はソーリーといって自分の非を認めたのです”と主張されると、陪審員も納得してしまうであろう。一般的に言って、“ソーリー”という言葉は本当に必要な時には安心して使われないことが多いのである。
 しかし、皮肉なことに“ソーリー”とすぐに言わないことが人々の間での係争や裁判に繋がっているのではないかという気がする。
 異論もあろうが、私は自分の非を認めて潔く謝罪するというのは、日本人の美徳或いは社会生活の知恵であると思う。タイミングを逃さず、すぐに、心から謝罪することで人々の刺々しい争いごとが少なくなる効果はかなりのものがあるのではなかろうか。イギリスの保険会社の調査では、交通事故関連の裁判のうち、“ソーリー”と言われていたら裁判にしなかったという件数が相当な数に上り、賠償金額、裁判費用、時間の莫大な節約につながったであろうという報告を読んだことがある。アメリカのいくつかの州では、“ソーリー”といっても裁判で不利に扱われない旨の法律を制定する動きがある。果たしてこの動きが広がるかどうか見ものである。アメリカの弁護士はまさかとは思うが反対しないで欲しいものだ。もちろんのことながら、“ソーリー”に効き目があるのは、心からの表現であると伝わった時だけであり、形式ではない。記者会見で頭を下げるだけではだめかもしれない。





 
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