日曜日夜のNHK大河ドラマ「平清盛」に対してどこかの知事さんが画面が
きたないと言ったそうだ。若き清盛像の設定も相当なものだが、あの頃の
武士の実像は大体あんなものだっただろうと思う。
鴨長明はその頃に生れた。そして20代から30代にかけて平家の勃興から鎌
倉幕府成立までの大ドラマを体験し、同時に大火、M7級の大地震、大飢饉、
強盗、放火など多くの天災、人災にも遭い見聞した。次第に無常観を深めて
58歳、源実朝の時代にあらわしたのが方丈記である。
そして著者の堀田善衛は、昭和20年、彼が20代後半の3月9日夜から10日
払暁にかけて東京大空襲を体験した。方丈記私記の書き出しには、「私が以
下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨
長明「方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験な
のだ。」とある。
ここから方丈記の引用を繰り返しながらこの著者らしく執拗に自らの体験の
上に立って災害論を展開し、人間の実体に迫ろうとしているように思える。
私記と銘打った由縁であろう。また長明を喰えない男とする人物解析も興味
深い。しかし、この本で私が意表をつかれる思いがしたのは、著者の和歌に
ついての関心の持ち方である。和歌は当時文学の中心にあり、しかもそれは
宮廷文化の中心でもあって、和歌で認められることは取りも直さず宮廷にお
ける昇進と直結するものでもあった。家柄がよいとは言えない長明も営々と
作歌に勤しみ日を費やしていたようである。その結果47歳にしてようやく和
歌所の寄人にまでなった。
ところで時代がすこし戻るが、長明30歳の頃大飢饉で死者が多数出て都のあち こちにそのむくろを晒すことがあった。仁和寺の隆暁法印という高僧がこれを悲
しみ、死者の額に阿の字を書いて弔い歩いた。その数が都の中心部だけでも4万 2千3百あまりになったと長明は書きとめた。堀田善衛も30歳は硫黄島玉砕の
頃で、自分の年恰好、戦争の成り行きとこの様子を引き比べあらためて暗澹たる 思いを抱く。
さて、これだけ死者が倒れていればその悪臭は当然宮中にも達していた筈である。
その中で宮廷にいる人たちがやっていたことは歌を作り選びまた歌合を執り行う ことである。それはよいとしても、その歌といえば「現実世界とはなんのかかわりも関係もない」花鳥風月、恋の歌である。現代のわれわれには考えられないこ
とである。和歌所で文学のための文学に携わりながら長明は遂に方丈の庵を結ぶ に至る。
かくして堀田善衛は東京大空襲から終戦直後の混乱貧窮期を長明と同様の体験と見做して嘆くが、一方で長明の否定者でありたいとも言う。だが無常観の否定は
現実直視であり、やはりこれはこれでなかなかの難事である。
昨年大災害の後、方丈記が沢山売れたそうである。私も以前買った方丈記私記を 本箱から引き出して読んだのであった。戦災に遭うと方丈記、大災害に向き合うと方丈記、どこまで続くのであろうか。まことゆく河の流れは絶えずしてである。