■2008年4月15日号 <vol.104> 書評 ───────────── ・書評 亀山国彦 『ノーフォールト』 岡井 崇著 ・書評 川村 清 『たすけ鍼』 山本一力著 ・【私の一言】クレア恭子『ロンドン便り(1)』
2008年4月15日 VOL.104
『ノーフォールト』 著者:岡井 崇 出版社:早川書房
著者は、現役産婦人科医。昭和大学医学部産婦人科教授、日本産科婦人科学会常務理事。本書は35年の臨床体験と医学知識を基に創作したサスペンスである。 大学病院の若い勤務医柊那智は、深夜の当直で容態の急変した胎児を救うため、生死を分けるぎりぎりの判断で、緊急帝王切開を行ない、出産を成功させるが、産婦は出血が止まりにくい遺伝病で1週間後に死亡する。女医と病院が医療過誤で訴えられ、その和解に至るまでの経緯が、処女作とは思えない臨場感あふれる見事な筆致で描かれ、読者を引き込む。 著者は、医師不足の医局実情、産科勤務医の過酷な勤務実態、健康保険制度の矛盾点、開業医と病院との関係等を巧みに織り込むと共に、医療訴訟については、医師・病院の立場に立ち、医師が力を尽くした医療行為の結果として起きた医療事故の被害者・遺族に対する補償を「無過失補償制度」を創設して救済し、原因究明は裁判とは別な場で行うことを提案している。 わが国医療制度は、国民皆保険の下、誰でも、諸外国に比し安価(わが国医療費の対GDP比率は先進30か国中最下位)に、高い質の医療が何処の病院でも受けられる点が優れていると関係者は自負している。しかし、近年の産科・小児科での医師不足、患者のたらいまわし、病院の閉鎖、膨らむ医療費等の問題は、このようなわが国医療制度が崩壊の危機に瀕していることの現れでもある。 2時間待ちの3分診療を経験している評者も、制度の抜本的見直しが必要と感ずる。本書では、医師はビジネスの世界というより、職人の世界にいるように見える。とすれば、医療現場の効率化の余地はかなりあり、そこから展望が開けるのかもしれない。 本書の背景を知るため、医療業界の入門書として、町 淳二・宮城征四郎編著「日米比較に学ぶ”国民主役”医療への道」(日本医療企画)がある。60人以上の医療関係者が、米国と比べた日本の医療の特徴・問題点を多方面から記しており、理解しやすい。
『たすけ鍼』 著者:山本一力 出版社:朝日新聞社
山本一力が江戸の下町を舞台とした人情物の佳作である。時代は天保であるから1830年ごろ、主人公の染谷(せんこく)は還暦を迎えた円熟そのものの鍼灸師、同じ裏だなに住む漢方医の昭年(しょうねん)とは同年の知己、二人とも花街から連れ合いを得て江戸の下町で医療の道を歩む。 大川の流れも近く、江戸の台所を賄う米、醤油などの問屋や各種の品物を扱う商品、そこに活躍する多くの人達に欠かせない料亭など、庶民の生活に密着した街の有様が描かれている。 池波正太郎は長谷川平蔵という武家と庶民の生活を描いて飽きさせないが、山本一力はより庶民に近い町人の生業(なりわい)を描写し尽くす。 鍼灸師染谷は、多くの町人、つまり武家ではない店の主人、番頭、その家族の病、怪我を治し、近所の子供を集めて教育(鍼灸の手習いを含めて)を施して、街には無くてはならない存在となっている。その高潔な志は、問屋の大店のあるじや有力者を動かし、飢饉のため値上がり激しい米の値段を抑制するような快挙につなげて行く。 昔の江戸にもこういう人物が確かにいたのだろうと思わせる労作である。
英国では1948年以来、国民全加入のナショナル・ヘルス・サービス(NHS) が確立、誰もが平等に無料(Free)で医療を受ける事ができる。各自は管理番 号のナショナル・インシューランス番号を持ち、医療費と国民年金が給料よ り天引きされる。雇用者も一定率で負担する。「英国では医療費が無料で嬉し いわ。」と私が言うと、英人の主人は「違う。僕達は永年高額の保険料を払い 続けているのだから無料ではない!」と訂正する。 週末に日本剣道の指導をしている派遣従業員のY氏は稽古中に袴の裾につ まづき足の小指を骨折、救急車で病院に運ばれた。はからずもNHSを利用し たわけである。氏の感想はほぼ満足。ただ彼の怪我は緊急を要しない、と判 断され重傷者が来るたびに後回し。手術開始がずいぶん延びたとか。この間、 飲まず、食わずが続き大部屋のベッドで待ちながら他の患者さんに配膳され る食事の匂いが空き腹にしみたそうである。 この種の時間待ちはNHSのあらゆる段階に蔓延しているので、大手の会社で は職員への福利厚生の一環として私立医療保険を導入している。職員の健康 維持を望む博愛精神からではない。’早く治療を受けて職場復帰をするよう に’という営利目的の必要経費である。 プライベートだと、専門医との予約はすぐ取れ、それも夕刻なので勤務に 支障はない。受付嬢は笑顔で親切。各種検査は迅速。経験豊富そうな中堅の 専門医が笑顔で優しく対応。言葉を選びながら時には図を描いて丁寧に説明 してくれる。私はいつの間にか開腹手術に応じていた。もちろん手術は予定 の時間に開始。薄型テレビとシャワー・トイレ付きの個室は快適至極であっ た。 ただ後日手にした、請求書のコピーには度肝を抜かれ、昔から耳にする‘地 獄の沙汰も---’という言葉を思い出した。恩典に浴しながら‘金’で入手でき る格差に英国の医療制度の陰を見る思いであった。
評論の宝箱も本年2月15日号で100号を迎えましたが、これを記念してベテ ランの方からご寄稿を多数頂きましたが、新しい方のご参加も得ました。 今号のクレア恭子さんのロンドン便りもその一つです。シンガポール、アメ リカ、オーストラリアに続く、世界からの便りです。今後とも宜しくお願い したいと思っています。 ご多忙中ご寄稿有難う御座いました。(HO)
2005/03/01
2004/12/01