昨秋、世田谷区の民家の床下から高い放射線が測定された(時間あたり600 マイクロシーベルト)ということで大騒ぎになった“事件”があった。
床等による遮蔽効果を差し引いても年間90〜180ミリシーベルトという線量 に該当するそうである。現在福島県の避難区域になっている場所で観測される放
射線量より桁違いに“高い”放射線量である。
しかし、年間100ミリシーベルト前後の放射線を床下のラジウム226から 50年間も浴び続けていた方が、92歳で健在であるということが分かると、
マスコミはこの報道をしなくなった。
恐怖感はあおっても、心配しないで良いようですよということは話題性に乏しい と思うのだろうか。
その後、福島県の採石場の石から放射線が検出され、その石が建築資材に各地で 使われていたことが判明したということでまた大騒ぎになっている。1キログラ
ムあたり最大で20万ベクレルの放射線が測定されたそうである。少し単位を混 同しがちであるが、地震に例えていえばベクレルは強さを表すマグニチュード、
シーベルトは体への影響度を表す震度、とでも理解すれば良いのだそうである。
どれだけとてつもない数字なのかと思っていたところ、環境省や県などが現地で 測定したところ、時間あたり9.8〜40マイクロシーベルトであったとのこと
である。時間あたりの放射線量で比べれば、世田谷の民家の方が桁違いに多いこ とになる。しかも測定場所は採石場であり、石とセメント等を混ぜて建築資材と
して使った建設現場ではこれより低い値となると想定される。
(ベクレルという単位は、原子核1個をベースにした単位ということである。
18センチメートルの鉛筆の長さを18万ミクロンあるということに例えるに似 たり、というと不謹慎といわれるのだろうか。)
これに似たような話を研究した論文があったような気がして、少し調べてみたら、 次のような研究報告が見つかった。(2007年公表の論文、出典は注1参照)
台湾の台北において、1982年から1984年にかけて建設された建物に、放射 性のコバルトに汚染されたリサイクル鋼材が誤って使用されていたことが1992
年頃から1998年にかけてその事実が徐々に明らかになったらしい。その後の長 年の詳しい調査の結果、1700戸のアパートを含む180の建物に使用され、こ
こで生活した人の数は出入りした人を含めほぼ1万人にのぼることが分かった。
これらの居住者の居住期間は、短い人で9年間、長い人は20年近い。
当初の被曝放射線量は、少ない人で年間18ミリシーベルト、多い人で525ミリ シーベルト、平均で年間49ミリシーベルトと推定されている。
これらの居住者の健康について、台湾の様々な機関が調査や研究を行った結果、驚 くべきことが明らかになったという。
この期間の台湾の一般人のガン死亡率は10万人年あたり116人であるが、ここ の居住者のガン死亡率は10万人年あたり3.5人、つまり一般人のガン死亡率の
30分の一以下であったという。
また、新生児の先天性異常は一般人の場合1000例あたり23ケースであるが、 この居住者の場合、1000例あたり1.5ケース、つまり一般人の先天性異常出
産率の15分の一であったという。
これらの例は、“放射線は少量であろうが多量であろうが、その量に比例して健康 に害を及ぼす”というLNT仮説では全く説明がつかず、放射線ホルメシス(閾値を
超える放射線は健康に害を及ぼすが、閾値より低い放射線はむしろ健康にプラスの 効果をもたらすという説)の証左となる一つの例である、というのがこの論文の主
旨のようである。
注1
Chen WL, Luan YC, Shich MC, et al. Effects of cobalt-60
exposure on health of Taiwan residents
suggest new approach needed in radiation protection.
Dose Response 2007; 5:63-75.
因に、建物のうち年間放射線量5ミリシーベルト以下のものは、今でも使われている そうである。
福島県の避難地域の人々がそれぞれの地域に戻った場合の健康への影響について、 LNT仮説をベースにしている人たちの計算でも、ガンによる死亡確率が0.5ポイン
ト上昇する程度の影響なのだそうである。
住み慣れた家を離れて不便な生活をし、必要以上に放射線による健康被害を心配し、 こどもを外で遊ばせないこと等による諸々のストレスによる健康へのネガティブな
影響を心配することの方が遥かに重要ではないのだろうかと思うのは私一人だろうか。
ましてや、少量の放射線はむしろ健康に宜しいというのはラドン温泉の効用を昔から 体感ないし見聞してきた日本人には、納得が行くことなのではないだろうか。
そろそろ、闇雲に怖がらず正しく怖がることが可能ではなかろうかとも思われる。
人々への影響力は、理性に訴えるよりも恐怖心をあおる方が遥かに強く、しかも一度 恐怖心を持ったらそれを克服することには大変な時間と努力を要するが、理性の力と
落ち着きが大いに役立つのではないだろうか。
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