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■2011年11月1日号 <vol.189>

書評 ─────────────

・書 評    青陽道幸 『アメリカが畏怖した日本』
             (渡部昇一著 PHP新書)

・書 評   船渡尚男 『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』
             (坪内祐三著 新潮文庫)

・【私の一言】幸前成隆 『人相は自ら作るもの』


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2011年11月1日 VOL.189


『アメリカが畏怖した日本』
 (渡部昇一 著 PHP新書)  

青陽道幸   

まず冒頭の「アメリカは騎士道精神のもちあわせがなく、常に自分たちを
正義と考える国」だと断じるところが、わたしにはとてつもなく新鮮に感
じられた。旅順の攻防が終わった時、乃木大将は水師営でステッセルを労
った。日本海海戦が終わった時東郷大将はロジェストウェンスキーを病院
に見舞った。でもマッカーサーは東条英機も本間雅晴も殺してしまった。
武士道をもつ日本と騎士道無きアメリカとの差である。
アメリカは当初日本にさしたる脅威を感じてはいなかったが、北清事変と
日英同盟や日露戦争での勝利あたりから、日本を恐れるようになり、日本
軍の米本土侵攻さえ想定するようになった。そして排日移民法とかブロッ
ク経済などによる日本叩きをするようになった。戦争になってアメリカは
日本の優れたところをイヤというほど味わうことになった。
東京裁判と占領政策とで日本を二度と立ち上がれないように仕向けたのも、
アメリカの日本を畏怖するが故の措置であった。東京裁判史観を定着させ
るために様々な政策を実施し、戦前の日本は悪かったということを日本人
に刷り込むことにつとめた。
結果はアメリカの思うつぼで、日本にもこれに同調する人が多々いたせい
もあって、途中でひっくり返す機会もあったのに、そのままずるずると時
を過ごしてしまった。
渡部教授は「今こそサンフランシスコ講和条約に戻るとき」として、東京
裁判を基点とする考え方(東京裁判史観)を捨てるべきことを強調してい
る。そして中国の共産党政権がアメリカと覇権を争う時代に入り、これか
らの日米関係は中国を視野にとらえながら考える要ありといっている。
私はかなり若いころから渡部教授の所説に感化されてきた。最初は「知的
生活の方法」だった。読書について考えさせられた。教科書問題で近隣諸
国が騒いだ時も、侵略を侵攻に書き換えた所などどこにもないと言って、
騒ぎを収めたことも有名な話である。この時の「一犬虚に吠えて、百犬声
に吠ゆ」は忘れられない。
今回の「アメリカが畏怖した日本」でも武士道の日本と騎士道なきアメリ
カという対比は納得性の高いものだと思う。

 

『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』
(坪内祐三著  新潮文庫)

船渡尚男   


 慶応三年は1867年 明治元年。七人とは「漱石」「外骨」「熊楠」
「露伴」「子規」「紅葉」「緑雨」である。彼等が東京に勢揃いしたのは
18年で,子規の死が35年,紅葉の死が36年で明治20年代の彼等の青春時代
を活写したものである。

紅葉、子規、漱石、熊楠は大学予備門に入り、露伴は電信学校。緑雨と外
骨は作家修業を始めた。大学を卒業したのは漱石のみであった。
小説家として先行名声を得たのは紅葉と露伴の二人で、同じ新聞社に勤め
ていたが、全く異なる作風をもってこの後進む。親しかったようではない。
露伴は北海道に職を得たが1年程で帰京。まだ鉄道が全通していない時代
で大変な苦労をした。
明治22年憲法発布。外骨は自らの雑誌「頓知協会雑誌」に「骸骨が頓知
研法を下賜する図」を掲載した。これが不敬罪に問われて3年間入牢。子
規は新聞社に勤めながら小説家を目指したが、成功せず大学も中退し俳句
の道につき進む。漱石との交流はこのあたりから深くなってきた。
熊楠は渡米し さらにイギリスにわたり知己を得て 大英博物館で猛烈な
勉強をし博物学者として大をなす基礎を築いた。

などなど彼等の交遊や周辺の人物群像に至るありさまが述べられている。
広く文献を集め、読み込み興味ある評論とした労作である。
小生は現在 露伴と漱石を読み直しているところであり、若き時代の彼等
の生き生きした様子に読書意欲が高まるおもいである。
                            

 

ご要望にお応えして、ジャンルを定めない自由評論コーナ ー【私の一言】を設けました。 評論の評論はもとより、社会評論等自由なご意見をお届けします。

『 人相は、自ら作るもの』
 幸前成隆 



「春風や 藤吉郎の行くところ(吉川英治)」。人は、明るい人のもとに集まる。
「和気致祥 (漢書)」。「心和し気平らかなる者は、百福自ら集まる。(菜根譚)」。

人の応対には、暖かさがなければならない。
「春風を以って人に接す(言志晩録)」。
「人に処すること藹然(崔後渠)」。
「人に接する時、常に顔色を柔和にすべし(鎌田柳泓)」。
「人に会う前に、顔形を整える(鈴木義雄)」。
「み名のごと温容をもて接しませと 朝の出がけに妻のふと言ふ(大津留温)」。

明るい人は、その人がおるだけで、職場が明るくなる。
「ほほえみをたたえた人が、そこにいるだけで、なんとなくその場の空気が
明るくなり、みんなの顔がほころび、心がやわらぐ、そんな人になりたいも
のである(松涛弘道)」。

顔を明るくしよう。顔は努力次第で変えられる。
「人相は自ら作るもの(司忠)」。
「暗い人は、明るく振る舞う努力をすればいい。(江口克彦)」。
「自分の心がけ一つで、自らの相をなおして開運することができる(司忠)」。

特に、トップは、明るくしなければならない。どれほど辛くても。

「上に立つ者は、苦しい時ほど笑顔を見せろ(井植歳男)」。
「天気の悪い時ほど晴れやかな顔を(後藤清一)」。
「笑いを忘れたら、リーダーはおしまい(本田宗一郎)」。
「顔は、自分のもので、他のもの(平澤興)」。

人相は自ら作るもの、明るい顔でおろう。

 

 

比叡山に「忘己利他」という石碑があります。
伝教大師最澄の言葉『(おのれ)を忘(わす)れて他(た)を利(り)するは
慈悲(じひ)の極(きわ)みなり』という言葉からのもので、我欲が先に立つ
ような生活からは幸せは生まれないのだということです。
翻って、わが国の情勢は財政難等多難さを増しつつあり、その解決には我欲で
はなく大局性のある方向性が望まれますが、最近の政治家を含む多くの日本人
は我が身中心型の思考や、主張に毒されているように思われます。
今こそ、国民全体が忘己利他の精神に立ち戻る必要があると考えますが。
本号も、多面的なご寄稿をありがとうございました。(H.O)





 
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