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■2012年6月1日号 <vol.203>

書評 ─────────────


・ 書 評  岡田桂典 『大往生したけりゃ医療にかかわるな 「自然死」のすすめ』 
             (中村仁一著 幻冬舎新書)

・ 書 評  石川勝敏 『保守の使命』  
             (杉原 誠四郎著  自由社)

・【私の一言】 新田恭隆 『江戸時代の一日』

 

 


2012年6月1日 VOL.203

『大往生したけりゃ医療にかかわるな 「自然死」のすすめ』
(中村仁一著 幻冬舎新書) 

岡田桂典    

人間にとって100%確実なのはいつか死ぬことです。そして万人は安らかに最後を迎えたいと望んでいるはずですが、現代医療では無益な延命処置で「生」を押し付けられているのが現状です。これに対し、いかに治療・介護を尽くしても「自然死」がベストである、本来穏やかで安らかな「死」という自然の営みを医療が濃厚に関与することで、より悲惨で、より非人間的なものに変貌させていると著者は主張します。

この本は死を扱っているのにユーモアにあふれていますが、表現は苛烈とも思えるほどです。「死ぬのは“ガン”に限る。ただし、治療はせずに」「医療が“穏やかな死”を邪魔している」「“出来るだけ手を尽くす”は “出来る限り苦しめる”」 「“健康”には振り回されず、“死”には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がける」という具合です。
著者は奇をてらっているわけではありません。京大医学部出身で72歳、病院長を務めた後で現在は老人ホームの診療所の医師です。老人達がガンでさえ何の手出しをしなければ全く痛まず穏やかに死んでいくのを60-70例体験して、人は“ガンで死ぬ”のではなく“ガンの治療で死ぬ”のだと確信し、また最後まで点滴注射も、酸素吸入も一切しない「自然死」を数百例見て、“食べないから死ぬ”のではなくて“死に時が来たから食べない”、“息が吸えないから吸わない”という自然の哲理に従えば、死に面した極限状態では痛みを感じないことが分かったそうです。

それでは何故今は「自然死」が少なく著者が言う“介護の拷問”を受けなければ死ねないのでしょうか。本来老いは自然の流れで医は人を若返らすことは出来ず、死を防ぐことも出来ないのに人々は「老い」を「病」とすり替え医療に頼ります。頼られたお医者さんは、下手に「歳をとればこんなもの」と言ってしまえば医者にとって大事な「飯のタネ」がいなくなるし、治療をしないと訴えられても困るのです。また、今のお医者さん達は病院で死ぬ時代に育っているため自然死を知らないという事情があるようです。さらに患者側の問題がありそうです。日本人は「自分の死は自分で決める」という自律精神が少なく「無駄な延命治療をしない」等の事前意志を表明する書類にサインしている患者の割合はわずか9%(米国は79%)しかないそうで(選択、11年12月号)自分の死も家族任せが多いようです。一方任された家族も自分達の祖父母達の時代は自宅で老衰死(自然死)を迎えるのが普通であったことは知りませんから、親孝行のためには病院に入れれば苦痛を和らげてくれる、生命を安らかに全う出来る、世間体も良いと考え、「自然死」が「最高の死」であるという事を理解していないのだそうです。

米国では「医学的に治る見込みがない患者に不必要な苦痛を与えることは医師のモラルに反する」「モラルに反する医療行為を拒否する権利がある」ことが常識だそうですが、日本でお医者さんが「自然死」の良さを説くのは勇気が必要だろうと思います。しかし著者によると自分は有名人じゃないので失うものがない、先が短いので怖いものがないので色々勝手に書いたと淡々と語っています。皆様の人生観・価値観によって賛否は分かれるでしょうが、この本は読み物としても抜群に面白く、私どもにとって含蓄に富んでいますからご一読いただく価値が十分にあるとお勧め致す次第です。 


『保守の使命』
(杉原誠四郎著  自由社)

石川勝敏     


 著者:東大修士卒、城西大学・武蔵野大学・帝京平成大学教授、「新しい歴史教科書をつくる会」会長

著者は平成23年8月に「新しい歴史教科書をつくる会」(以下つくる会と略称する)の 会長に就任した。
就任にあたり「つくる会」の社会的使命と現状を解説したものがこの図書である。
要点を記載します。

保守とリベラリズム、市民運動、左翼との対立点は何か。保守が国家社会に対する責任感を持って発想するのに対し、リベラリズム、市民運動、左翼にはその様な責任感は見当たらない。保守自体は何かを主張するものではない。イデオロギーの危険を説くに過ぎない。

平成8年に中学生の教科書大手5社歴史教科書に揃って、従軍慰安婦問題が記載され、論争が始まった。これに対抗して活動をはじめた「つくる会」が話題になったのは平成9年であった。当時「つくる会」の教科書は出来たが、実際に学校で採択されたのは極わずかであった。「つくる会」の努力は継続された。

平成18年に、教育基本法が改正され、「国を愛する心」や「公共の精神」が強調されたにも拘わらず教科書大手5社の公民教科書は、愛国心や公共精神について何も記載されなかった。また、大手5社の公民教科書には外国人の参政権は差別の問題だと記載されている。 「つくる会」の作成した公民教科書は愛国心や公共の精神の大切さを説いたが、公立学校での採択はゼロで、私立を含めての採択率は0.07%という結果であった。
教科書市場は左翼独占の場になり、まさに日教組状態になっている。
この様な状況では、次世代の国民教育に大きな問題を残す事となる。

中国は1985年(昭和60年)に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館を建て反日教育を続けている。南京事件は捏造である事が判明しているのに何故非難を続けるのか問題である。
国家資本主義の矛盾を転嫁せざるを得ない国内事情に依るものであろうが、共産主義にのみ責任を追及するのは不十分でそれ以上に中国の古代から引き継いだ「易姓革命」の政治理念に帰して考えるべきであろう。

吉田茂を大宰相と評価する人は多いが、真珠湾の騙し討ちの原因を作った2人の外交官をともに外務次官として処遇し、1人を戦後初めて天皇がマッカーサーに面会した時に通訳として立ち会わせ、もう一人をサンフランシスコ平和条約締結時に随員として立ち会わせた事は歴史を曲げ、外務省の責任を隠蔽し、真珠湾の騙し討ちの事実を隠蔽した事になろう。
終戦時の総理として果たした責任は多とするがアメリカからの再軍備要請を警察予備隊として処理した事や講和条約締結後の日本国民としての戦争総括をしなかった事が議論の対象となるだろう。
教科書問題と中国の反日教育は今後の重大問題で皆様にもご一読の上お考え頂きたい。

 

 

ご要望にお応えして、ジャンルを定めない自由評論コーナ ー【私の一言】を設けました。 評論の評論はもとより、社会評論等自由なご意見をお届けします。

『江戸時代の一日』
新田恭隆 

 江戸時代には時刻を表すのに不定時法が多く用いられていたらしい。
不定時法とは、明六つから暮六つまでを6等分、同様に暮六つから明六つまでを6等分し、それを基本単位「一つ」として1日の時刻を定めたものである。ここで明六つとは日の出前約(現在の時制で)36分、暮六つとは日の入り後約36分と決められていた。ところが日の出、日の入りは季節によって異なり、日の出は夏早く冬は遅い。東京(そして江戸)の場合日の出は、6月中旬は4時25分頃、1月上旬になると6時50分頃であるから、江戸の明六つは早い時は3時50分頃、遅い時期には6時15分頃ということになる。
このように、明六つと暮六つとを自然現象に従ってフロートさせていた。

さて私も次第に80歳に近付いており、世の高齢者同様朝目が覚めるのが早くなってきた。自然に覚めることもあるが、明け方用を足しに行った時に明るくなって居るとその後寝られなくなることもある。上に述べたとおり夏が近付くと4時頃にはそろそろ明るくなる。そうこうする内に、我が家では4時半頃には朝刊を配達するバイクの音が聞こえてくるので新聞を取って来て読み出すとそのまま起きてしまうことになる。その時期には日没も遅くなるが、夕方のルーティンは大体決まっているので朝が早いとそれだけ一日の時間が長くなるのでやりたいことの手順が進み大変気分が良い。朝が早いと寝るのも早くなるのは当然である。私の場合、10時半過ぎれば就寝する。
江戸時代は夜間照明が劣悪であったこともあり、一般的に人々の生活は朝早く夜は早かったのではなかろうか。そう考えると私の生活時間は不定時法的ということになる。冬になると目覚めるのが遅くなるが、只、どういう訳か夜は就寝が一年を通じて早くなってきた。

夏の朝でも明六つから暫くの間は空気もさわやかでまずクーラーのお世話になることはない。また朝早いだけ夜は早く寝るので、結局意図せざるエネルギーの節約となり、これは図らずも現代最先端の、電力を使わない生活パターンと言えよう。
さらに話を展開させれば、エネルギー源不足だから生活を変えるというのではなく、現代文明人の爛熟し過ぎた文化を変革する新しい思想、哲学が出現して、その結果として過大なエネルギー消費がいらなくなると言う世の中がくることを私は期待したいのである。人類は知らず知らずの内に自然を従えるという考えに陥っていたのであろうか。 

 

 

 福井県の西川知事は大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)の再稼働に関して「消費地は福井県の(原発運転開始から)約40年の努力や苦労、恩恵に無感覚であってはならない。我々は関西の同意を待っているわけではない。消費地が電気をいらないというなら、福井が無理をして動かす必要はない」と苦言を呈したとの新聞報道(5/24)がありました。最近、ブータン王国のGNH (国民総幸福度) の概念が、経済的な豊かさのみを追い求めるのではなく、個人が幸せを感じることができる概念として注目されていますが、原子力発電問題は国民総幸福度からみればどういうことになるのでしょうか。国民総生産を選択するにしろ、国民総幸福度を選択するにしろ、日本の現状からすれば、いずれも何らかの面で犠牲がいります。その認識と犠牲を覚悟して議論をすることが必要ということでしょう。なお、ブータンとは次元が違いますが、経済協力開発機構が調査した国民生活の幸福度を表す指標で、日本は36カ国中21位ということでした。
今号も貴重なご寄稿をいただきありがとうございました。(H.O)


 





 
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