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2006年2月1日 VOL.51

 

 

『かんじき飛脚』
著者:山本一力  出版社:新潮社

川村 清 

 時代は、寛政の改革が行われた1789年の年末11月から12月の極めて短い期間のことである。寛政の改革は、ご存知のように、田沼意次の放漫財政を一挙に緊縮財政に切り替えようとした老中首座松平定信が主導したものであるが、舞台はその改革3年目、不況の真っ只中に起きた雄藩取り潰しの定信の陰謀とこれに必死の抵抗を試みる金沢前田藩の暗闘を描く。
 定信は11代藩主前田治脩(はるなが)が名君であり、公儀としては警戒を怠れない存在と見ていた。前田家は外様ではないにしても、豊臣家とも近かった百万石の大身として、放置できないものであった。
 定信は治脩の内室が病気であることを探り出して、一計を案じ、年明け正月2日に内室同道で私的な祝賀の宴に招待することとし、同じように内室不例の土佐藩にも声をかけるという手を打ったのであった。
 江戸在府の内室が病ということが露見すれば、公儀はあらゆる手段をもって難癖をつけてくるか想像を絶するものがあった。
 ここで加賀と江戸とを結び付ける最速の連絡手段の加賀飛脚が登場する。12月の半ばで効能の切れる「蜜丸」を金沢から急送しなければならない。これがあれば内室の病は快方に向かう。
 本郷の浅田屋江戸店から8人の屈強な飛脚8人が金沢に向けて発ち、二人が金沢まで走り、蜜丸を持った加賀組が江戸に向かうが、早くも公儀お庭番はその動きを察知して妨害を試みる。信州追分と牟礼の間で両者は雪中死闘を展開、飛脚は頭(かしら)を失うも辛うじて蜜丸を江戸に届けるという筋書きである。
 私ごとであるが、金沢勤務で愛着のある土地の絡むこの書は面白かったの一言である。




『森村誠一の写真俳句のすすめ』
著者:森村誠一  出版社:Mスパイス
岡本 弘昭 

正岡子規の母親が“毎年よ、彼岸の入りが寒いのは”といった。それを聞いた子規が、俳句を学びたいのだが難しいのでしょうね、と逡巡していた知人に“これでいいんだよ、これで立派に俳句になっているんだから”と母親の言葉を伝えたという話をどこかで読んだことがある。
これは、日本人は、普通に話していても、自然に5:7:5の音節になることがよくあり、この音節は日本人の体質にあっている証左でもあるが、私自身もこの音節には興味を持っていた。
しかし、俳句となると色々しきたりもあり、難しそうだと思い入門を躊躇していた矢先“森村誠一の写真俳句のすすめ”という本が出版された。
これは、森村誠一氏が、散歩の都度、持ち歩いているデジタルカメラで俳句になると予感する光景を撮影し、後にその映像をじっくり観察し俳句を作る。或いは俳句が閃いてから撮影する。という自分の体験から生まれた俳句と写真が一体となった新しい表現世界の提案である。
著者によれば、俳句と写真がセットになることで各々が相補って意外な面白さが増す。つまり、凡寫が俳句を侍らすと存外に精彩を帯びる、凡句も写真とセットで意外に面白さを増し、独特の世界を表現するとの事である。
さらに著者によればこの新しい表現方法上達のコツは次の5点となる。
1 句会には出席しない。2 他人の句は批判しない。3 名句はたくさん読む。4 歳時記に親しむ。5 写真と一体であり、足でつくる。
写真も俳句も初心者の私でも煩わしさなしに挑戦できるので早速試し、自分で悦に入っている。
俳句或いは写真を趣味とする方々も夫々を生かした新しい表現文化として試されたらどうかと思う。





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『マイ「ペット」考』
高橋 紀元
私は、あまりよそ様のお宅を訪問する趣味はないが、何かの拍子で子供が既に独立して老夫婦だけになった友人宅を訪れることもある。
応接間のソファーの上にクッションにしては厚みのある物体を見つけ、「ナンじゃ?こりゃ−」といぶかしげに見つめていると奥方が「まあ、リリ−ちゃん!お客様にご挨拶もしないで…」とそれを抱き上げる。
ネコだ。デブだ。エサのやりすぎだ。
私はネコに挨拶して貰う義理もないが、仕方なく返礼する。
ダラリとした巨大なタラコに毛皮を貼り付けたような物体はグロテスク以外の何物でもない。猫は変わった。
かつて、先輩達が鋭い眼つきでガリガリの体を血だらけにしてネズミをむさぼり食っていた雄姿が懐かしい。
猫だけではない。犬も変わった。
最近、観光地の人ごみの中でブランド物の腰巻を身につけたイヌをひきずり廻すのがやたらと流行っている。イヌにしてみれば迷惑な話で、哀れというより滑稽だ。昔は犬の散歩も鎖をつけずに連れて行ったものだ。
なんでも「昔は良かった」というつもりはないが、彼等の為にはその方が良かったのではないだろうか。
言うまでもないことだが、変わったのはイヌ,ネコではなく、人間の扱い方が変わっただけなのである。
タラコのネコ、ブランド腰巻のイヌを仕立て上げる趣味のある人達というのは、自然の理に従うより自分中心に振舞っているのではないだろうか。
相手が人間であっても同様に振舞う。
さらに、この類の人が始末に悪いのは「ワタシはほんとにいい人だ!」と信じ切っている点である。相手のことなど一切構わず自分がいいと思うことをどんどん相手に施すことを生き甲斐としているのである。
しかし、イヌネコ相手ならともかく、相手が人間となると、あまり意に反することを続けられると不満がかえってくる。すると「ワタシはこんなに親切にしているのに!」と激昂し、両者の関係は断絶。
不満が言えて断絶する関係ならまだしも、弱い立場でそれもできない相手となると、ただ黙ってひたすらそのお節介に耐えるしかない。
犬猫はもとより、会社あるいは家庭内でこれに耐えている人も予想外に多い気がする。





 
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