時代は、寛政の改革が行われた1789年の年末11月から12月の極めて短い期間のことである。寛政の改革は、ご存知のように、田沼意次の放漫財政を一挙に緊縮財政に切り替えようとした老中首座松平定信が主導したものであるが、舞台はその改革3年目、不況の真っ只中に起きた雄藩取り潰しの定信の陰謀とこれに必死の抵抗を試みる金沢前田藩の暗闘を描く。
定信は11代藩主前田治脩(はるなが)が名君であり、公儀としては警戒を怠れない存在と見ていた。前田家は外様ではないにしても、豊臣家とも近かった百万石の大身として、放置できないものであった。
定信は治脩の内室が病気であることを探り出して、一計を案じ、年明け正月2日に内室同道で私的な祝賀の宴に招待することとし、同じように内室不例の土佐藩にも声をかけるという手を打ったのであった。
江戸在府の内室が病ということが露見すれば、公儀はあらゆる手段をもって難癖をつけてくるか想像を絶するものがあった。
ここで加賀と江戸とを結び付ける最速の連絡手段の加賀飛脚が登場する。12月の半ばで効能の切れる「蜜丸」を金沢から急送しなければならない。これがあれば内室の病は快方に向かう。
本郷の浅田屋江戸店から8人の屈強な飛脚8人が金沢に向けて発ち、二人が金沢まで走り、蜜丸を持った加賀組が江戸に向かうが、早くも公儀お庭番はその動きを察知して妨害を試みる。信州追分と牟礼の間で両者は雪中死闘を展開、飛脚は頭(かしら)を失うも辛うじて蜜丸を江戸に届けるという筋書きである。
私ごとであるが、金沢勤務で愛着のある土地の絡むこの書は面白かったの一言である。
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