この種の本を是非一度読んでみたいものだと思っていたが,本書の題名に釣
られていざ読んでみると,『長寿』,『不死』,そして『死』というような緊迫
の問題が,自分には益々解せないものになってしまった。ビュリッツアー賞
を受けたこともあるサイエンス・ライターが書いたこの本は,ヒトの寿命や
長寿などの科学,主として所謂『老年学』(Gerontology)について著したもの
で,その内容は確かに面白い。だが,あまり体系的に書かれていないと感じた
難解な本で,しかも、この著者が取上げた老化・長寿の話題ないし問題の帰
結については,事が事だけに,慎重に,何一つとして断定的な答えを出していな
い。このことが,評者の理解を困難にしているように思われた。換言すれば,
本書によれば,この『老年学』という学問は,1980年代から欧米で盛んに研究
されだした新顔だそうで,未だ発展途上にあるため,現在なお様々な意見が錯
綜していることが影響しているのかもしれない。
『老年学』とは,ヒトの老化や死などについて,生物学的,医学的な研究を対象
とする学問分野(?)らしい。そして本書では,1999年に『老化のミトコンドリ
アによるフリー・ラジカル説』という専門書を出版して,『老年学』分野に殴
り込み,この本の業績により,ケンブリッジ大学から生物学博士の学位を授与
されたデ・グレイという年齢不詳,ケンブリッジ大学卒,元々はコンピュータ
・エンジニアで,ビールを浴びるように飲み,痩せて青白く,顎髭が腰まで届く
という奇妙な人物の主張を主役として、論旨が展開される。というのは,この
男が,ヒトは何れ500才,1000才迄生きられるようになると公言した張本人だっ
たからである。
以下,本書の核心部分と考えた箇所を瞥見することにより,本書の書評に代え
たい。
但し,生物学,医学,更に生物倫理などの難解な分野の話題が多いので,消化不良
の箇所もあることを前以てお断りしておく。
周知の通り,ヒトの平均寿命(新生児が生きられる平均年数の期待値)は,時代の
推移と共に伸びている。古代ローマ時代の平均寿命はせいぜい25年程度,中世
(紀元1000年頃)は30年,ルネッサンス期には33年程度,そして18世紀の先進国で は47年,これが20世紀末には76年迄伸びた。かかる寿命の伸びは,これを一語で
尽くせば広義の『文明の発達』の結果とみる。
このようにわれわれの寿命は伸びつつあるとはいえ,なおも加齢に比例して
肉体的,精神的な衰え,即ち『老化』が避けられないというのは何故だろうか?
1953年,イギリスのワトソン,クラークがデオキシリポ核酸(DNA)の二重螺旋
構造を突き止めて以来,『分子生物学』という学問が発達して細胞内の構造が
解明されてきた。その結果,老化を齎す主因の一つとして, 100兆 ̄200兆もある
ヒトの各細胞に数百 ̄数千個も含まれている細胞小器官ミトコンドリア(この機
能の説明は極めて専門的になり,十分に理解できない点もあるので省略)の機能
低下があげられる。即ち,このミトコンドリアの各々は,呼吸を通じて齎される
酸素により,われわれの体全体を動かす燃料となるATP(アデノシン三リン酸)と
いう高エネルギー分子を生み出すという重要な機能を有するが,酸素分子がミト
コンドリアに到達した際,ATPになれなかった一部の酸素分子が,不安定で,何と
でも結びつく『フリー・ラジカル』(遊離基=要するにミトコンドリアで生じる
『老廃物』ないし『ゴミ』),または『酸化体』に変化する。この『ゴミ』がミ
トコンドリア内を彷徨するうちにその部品を傷つけ,その損傷が蓄積していくと
,遂にはそのミトコンドリアは機能を停止して,身体の老化一般が進むことになり,
これがDNA(デオキシリポ核酸;遺伝子を担う物質)を傷つけるとガンが発生し,脳
の神経細胞がやられるとアルツファイマー病になるという。
老年学者は,以上のような考え方を『フリー・ラジカル老化説』と呼び,老いた
身体が活力を失って故障を起し,最終的には死に至る主な原因の一つとしている。
このような理屈から,先ず,ヒトは若い頃,即ち,せいぜい12才頃までの健康状態が
後々まで維持できるならば(即ち,ミトコンドリアに貯まる『ゴミ』を完全に掃除
できる能力が備わっているならば),ヒトは平均して1200年程度,1000人に1人は1 万年以上生きられることになるらしい。
次に,『老化』の原因が,上記のようにミトコンドリアに貯まった『ゴミ』にあ
るならば,この『ゴミ』を『箒』で奇麗に掃除してしまえば,不老・不死になれ
るのではという発想は,素人でも浮かぶことだろう。事実,上記デ・グレイとい
う妙な学者が,老化は自然現象ではなくて病気であるとし,その治療法として,
老化を齎すミトコンドリアの『ゴミ』の種類を7種に絞り,これらを徹底的に掃
除できれば老化は治療できるとした。が,彼は,この7種類の『ゴミ』のうち『遺
伝子の危険な突然変異=ガン』という『ゴミ』だけは,対処法が見付からないの
で絶望的であるとする。なお,この『ゴミ』処理担当の『箒=リゾソーム』を発
見した学者は,ノーベル賞を授与されたとのこと。
実際のところ,不死身の生物として淡水産の無脊椎動物のヒドラなどが挙げら
れるそうだが,ヒトの場合,『老化』は避けられないものであろうか?1970年代
に,イギリスの学者が『使い捨ての体説』という考え方を発表した。われわれ
の身体が遺伝子を子孫に引き継ぐ繁殖期を終えると,われわれは必要なくなり,
ゴミ同然に使い捨てられる。老人になったら歯が抜けるが,死んだら歯は必要
ないからだというのも,一理ある。要するに『使い捨ての体説』では,老化が起
きるのは,身体の『維持管理』が次第に難しくなるからだとされ,従って老化は
不可逆的であり,老化治療は役立たないということになっていたようだ。
ところが1980 ̄90年代にかけて,細胞・分子生物学や生態学などか進歩してく
ると,上記デ・グレイのように,老化は調整可能だという考え方が強くなった。
即ち,例えば線虫など原始的な生物でメトセラ(『長寿生物』のことで,969年生
きたという聖書中の人物名)ができるならば,遺伝子工学や飼育実験によって,
ヒトのメトセラを作ることも何れは可能になるとして,老いの時間を極力短縮
し,若年時間を長引かすという方向で,次第にその扉が開かれていったという。
その結果,老化を遅らせるという薬品も現れてきたそうだが,この薬のひとつを
開発した本人が毎日飲んでみて,年齢の割に若さを保っているどうかは,未だ本
人にも分かっていないないとのことだ。
最後に, ,本当に臨床試験で合格する抗老化薬か発見されて,老化が克服できる
時が来到来し,ヒトがメトセラになれたらどうなるだろうか。またデ・グレイ
の登場してもらうと,上述七つの老化原因を排除できたならば,1000年はおろか,
実質的に永久生きられるようになると主張する。然し,七番目の『ゴミ=ガン』
の処理でギブ・アップしたように,事はそれ程簡単ではあるまい。2,3の問題点
を挙げてみよう。
先ず,これはデ・グレイの言葉だが,ヒトが永久に生きられるようになると,自
分自身の人生を楽しむため,子孫を儲けようとはしなくなるので,恐らく50歳
以下の人はいなくなる,という意見がある。事実,平均寿命が伸びている国で
は出生率は低下している。
次に,『ヒトは死ぬけれども,それは雄々しかったり,惨めだったりするからで
はなく,同じことの繰り返しに疲れ果てたからである』(F.ベーコンのエッセ
イ『死について』)とあるように,不死により生じる暇を持て余し,退屈に堪え
難くなって,これから逃れる方法もなく彷徨う無為無策の男女が増えるであ
ろう。
また,抗老化薬によってヒトの寿命の延長に成功したとした場合,単に個人的
な問題のみならず,今迄の生物倫理に関する理論の総てが覆される上,ゲノム
(生殖細胞に含まれる遺伝子)に手を加えることの是非の問題なども浮上し,
寿命を延ばすために遺伝子を取捨するなら,恐らく取り返しの付かないこと
にもなりかねないであろう。
以上要するに,現在の老年学は,肯定派と否定派とに二分されているようであ
る。老年学は,老年を治療すべきか,或いはわれわれの最後の日々をより過ご
し易くすべきであろうか。老化は治療されるべきか,否か。老年学者の間で
は,老化が一つの纏まった問題であるかどうかについてすら,同意できていな
いようである。
然し,何れにせよ,本書の著者によれば,老年学の現状は,ヒトの寿命を延ばすこ
とは可能であるという段階にまで進歩してきているようで, 何れ2030年頃に
生まれる赤ちゃんは,恐らく、次世紀の半ば頃迄生きられるのではないか,と
する学者もいるそうだ。
それにも拘わらず,本書の著者はいう。即ち, 寿命を延ばすと証明された薬品
は,これまでに一つもないというのが一番簡単だ。あるなら一つでも挙げて
見てくれ。最新の幹細胞研究に関わる論評記事は,こう結論づけている。即
ち,『(老化に対処する)最良の助言は,矢張り腹八分目と適度の運動とに尽き
る』。医学が,われわれを救済できるほど発展するまで長生きしたいなら,医
学が現在良いと認めることに従おう,と。
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