校注者 西岡 実: 1889 年長野県生まれ、東京帝国大文学専科修了、東京女子大教授、法政大教授、国立国語研究所初代所長、徒然草、世阿彌、道元の研究で有名な日本語学者
校注者 安良岡(やすらおか)康作: 1917 年埼玉県熊谷市生まれ、東京帝国大文学部卒業、東京学芸大教授、徒然草、方丈記.歎異抄、正方眼蔵の研究で有名な中世文芸研究者
(以上いずれもウイキペデイア)
つれづれ草の名前は日本人の 80 %の人が知っているだろう。私も高校の古文でその一部を学んだ記憶がある。今回は校注を読みながら全文を初めて読んでみた。
簡潔で的確な文章である。内容も(つれづれなるままにそこはかとなく)書かれたものでは無く積極的な取材があり、綿密な思考論証があり、主張がある。徒然草の著者兼好の伝記については現在も不明な部分が多い。生年は
1283 と推定されている。吉田 兼好という呼び名は江戸時代以降のものである。卜部兼好が正しい。卜部姓は天児屋根につながり、代々神祇官として朝廷に仕えてきた家系である。兼好は父兼顕(太政官、神祇官)の三男であり、朝廷に仕え蔵人を経て左兵衛左に至った。推定年齢三十歳頃官吏の身分を離れ兼好御房と呼ばれる遁世者となっていた事が確認されている。
兼好法師家集にある ( さてもなほ世を卯の花のかげなれや遁れて入れり小野の山里
) の一首により京都山科の峠の東の小野の里に住んでいた事が知られている。
兼好は歌人、古典学者、能書家、有職故実家として世に認められていた。
兼好は本書の中で世俗 ( 恩愛と名利 ) と仏道(恩愛も諸縁も断ち安心を願う境界)そして遁世(非僧非俗第三の社会身分)を明確に区分している。その中で自分がどう生きるか模索をし、その結果 閑暇境こそ心身の安静にいたる道だとし、そこに生の意義を見出している。現実に押し流され埋没して生きる人生を批判し心身の安静を得る遁世の道を勧奨している。
兼好が読者として想定した人達は仏教経典、中国の古典、日本古来の和歌、物語、有職故実、律令格式にわたる広範な知識教養をもつ読者である。当時の貴族社会公家階級である。
徒然草は世俗社会の煩雑を超えて自己を生かす道を求める人のいる限り将来も読み継がれるだろう。
七百年前の随筆も校注無しでは読めなくなっている。言葉、文化、倫理の変化の速さに驚くばかりである。私は七十五歳、形は閑暇境にあるが兼好の心境とは大きく違う。囲碁を打っては連泊して深夜に至り、家屋内に物多く更に新しい機械も欲しがる。諸縁を求めて宴会を持ち歌まで唄う。信仰心の薄さ故か。徳性に劣り、兼好法師に厳しく批判されそうである。
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