ドイツ語に、als ob またはals wennという熟語(die Idiom)がある。
「あたかも〜のように」と訳される。例文として辞書に載っているのは次の文
章である。
Er tut, als ob er schliefe. 彼はあたかも眠っているようなふりをする。
Als ob ich das nicht w?sste! 私がそれを知らないみたいじゃないか!
(もう知ってるよ!)
Er lachte, als wenn ihm alles gleichg?ltig w?re. 彼は全てがどうでもよいように笑った。
いずれの文章とも接続法第2式が使われており、実際には必ずしもそうではないことが婉曲的に表現されている。als
obは、英語ではas ifまたはas it wereに該当する。辞書には次の例文が挙げられている。
He talks as if he knew everything. 彼は何でも知っているような口ぶりだ。
そこで思い出されるのは、森鴎外の『かのやうに』という小説である。明治の
末年に書かれたこの小説の概要は次のとおりである。ある子爵家の長男に生まれ
た秀麿は文科大学(今の東京大学文学部など)を卒業してドイツに留学する。そし
て留学先から時々父に手紙を送ってくるが、その内容は神学に関する記述が中心
である。信仰の対象としての宗教および修める学問としての神学の問題である。
主人公は人間を大別して、教育があって信仰もある人、教育はあるが信仰のない人と教育はないが信仰の篤い人および教育も信仰もない人に分ける。そして信仰はないが宗教の必要性を認める人は問題ないけれども宗教の必要性を認めない人は危険思想家と断じている。
一方主人公の専門あるいは将来身を立てようとしている学問分野は歴史学である。当時の日本の歴史学は古代について神話を史実と認めていたのだが、彼は科学的な立場から神話を事実として認めることができない。しかしそれを表立って表明することは将来の彼の前途を閉ざすことになる。そこで彼は神話が実際にあるかのごとき立場をとることによって現実と妥協しようとする。この小説の題名はそこに由来している。
森鴎外はこの主人公を自分の思想上の分身(der Doppel G?nger)に見立てて主張させている。というのも鴎外は医学の修得を文部省から命ぜられてドイツに留学したのであり、かの地で荘厳な大聖堂や敬虔に神に祈る信者の姿を見てあたかも神のおわしますかのごとく(それは必ずしも神の存在を否定するものではない)振舞っているのだと鴎外には映ったのではないだろうか。帰国後主人公を訪ねてきた友人に向かって彼は次のような趣旨のことを言っている。
「『かのやうに』がなければ、学問も芸術もない。宗教もない。人生であらゆる価値のあるものは『かのやうに』を中心にしている。それはあたかも面積のない点や幅のない線が現実には存在しなくても幾何学が成立しており、目には見えなくても物質が原子から出来ていると考えることによって化学が成り立っているようなものだ。法律の分野でも完全な自由意志など存在しないことはわかりきっているが、自由意志を考えなければ刑法全部が無意味となる。同様に霊魂不滅などは考えられないが、『あるかのように』考えなければ倫理は成り立たない。」なお、私だったらそれに虚数を加えたい。(注1)
鴎外は医学者でもあることから察するところたぶん唯物主義者であり、外遊中にキリスト教信者(おそらくプロテスタント)が熱心に祈る姿を見て、このように自らを得心させたのであろうと思う。
先日阿刀田高氏(日本ペンクラブ会長)の「古事記・小泉八雲とギリシャ神話」題する講義を聴いた。氏はそのなかで神話は史実ではないがまったくの作り話でもないといっておられた。まさに『かのやうに』であり
als obである。『かのやうに』はあえて否定も肯定もしないが、あたかもあるかのように取り扱ったり考えたりすることによって、複雑で厄介な
問題を摩擦の生ずることなくスムースに前に進めようとする人間の叡智なのではないだろうか。
(注1) 虚数は実数(有理数+無理数)ではないので、自然界には存在しない数(2乗してマイナスになる数)であるが、虚数を数の仲間に加えることによって数学は著しく発展した。
(注2) 思想的にはプラグマティズムに近いドイツの哲学者Hans Vaihinger(1852〜1933)に、「Die
Philosophie des Als Ob」(アルス・オプの哲学)という著作がある(1911年刊)。
以上
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