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■2012年7月15日号 <vol.206>

書評 ─────────────


・ 書 評   丸川 晃 『なぜヒトは走るのかーランニングの人類史-』
            (トル・ゴタス 著 楡井 浩一 訳 筑摩書房)

・ 書 評   前川 彬『ニッポン━ヨーロッパ人の眼で観た』
            (ブルーノ・タウト著  春秋社)
                                   
・【私の一言】岡田桂典 『原発の幻想から一日も早く覚める時』


 

 

 


2012年7月15日 VOL.206

『なぜヒトは走るのかーランニングの人類史-』
(トル・ゴタス 著 楡井 浩一 訳 筑摩書房) 

丸川 晃    


  運動不足やお腹のだぶつき解消のため、週に2、3回アスレチック・クラ ブに通って、ストレッチ、有酸素運動や筋トレに励んでいるつもりだが、 その成果はなかなか上がらない。このうち有酸素運動は、自転車こぎ、競 歩やジョギングなどを主体にしているが、中でもジョギングは、悲しいこ とに年寄りの冷や水で、中年のおばさんにも『お先に』と抜かれる程のゆ っくりしたスピードでしか走れないにしても、老・若取り揃えてのジョギ ングに参加するのは楽しいものだということで、本屋の体育関係の書棚か ら見付けた本である。
 たまたま7月下旬からロンドンで3回目になる第30回オリンピックが始ま るというタイミングだし、気楽に一気に読了できた楽しい本として、書評 で取上げることにした。

 本書の内容は、大きく分けてその前半は、原始時代から19世紀頃まで、 ヒトは何故走るのかについての歴史や逸話が語られ、後半では、20、21世 紀の徒競走にみられた変遷・特徴および問題が、ケース・スタディとして、 日本の瀬古を含む世界的なランナーを登場させて語るという構成で、民族 学、文化史に関する著作がある作家(ノルウエー生まれ)の著書だけに、 ランニングに関する辞典であるのみならず、『走る』ことの社会文化史で もあるところに、本書の特色が見られる。

 古今東西、人々が世界中で、走り続けてきたのは何故だろうか?遙か昔 のわれわれの祖先が、アフリカのサバンナで、生きるために走り廻って 狩りをしていた名残だろうか。古くメソポタニアやエジプトでは、走るこ とは、多くの場合宗教儀式の一種になっており、これがギリシャ時代にな ると、オリンピア競技祭などで、神に捧げるための各種の『徒競走』が行 われるようになり、ローマ人の場合、スポーツは一般的にはならず、参加 するより見る側に廻ったという。

 そして、古代から18世紀頃までは、殆ど世界中の国で、情報伝達手段と して『走る伝令』が重要な役割を果たしてきたが、他方、何でも賭けにし てしまうイギリス人は、『賭けレース』を盛んにし、1832年には、パリか らモスクワまで1600マイルを15日間で走るという馬鹿馬鹿しい賭けレース も出現した。
 これに対して東洋では、チベット修行僧の特別な走りや、比叡山天台宗 の回峰行者による地球円周以上の距離を踏破する荒修業が、驚嘆をもって 紹介されている。

 近代陸上競技の成立を決定づける特徴は、トラックの長さが固定され、 距離・時間が正確に計測できる競技場が建設されだしたことで、時計の技 術的進歩は別としても、トラックの場合、1868に行われたロンドン陸上競 技会では1周1/4マイル、大陸では500mが主流であったが、1928年のオリン
ピック・アムステルダム大会以降、現行の400mが標準になったという。
   
 1896年に、クーベルタンが古代オリンピックを『再発見して復活させた』、
というのは誤解であって、オリンピア遺跡は、既に19世紀初頭には英・仏・ 独の調査団が発掘しており、彼は、94年開催のパリ・スポーツ会議で『オ リンピック競技』の復活を提案して、これが採決されたことにより、現在 まで彼の名がオリンピックと関連付けられているのだそうだ。

 当初の『オリンピック競技』種目は、19世紀末には全世界を主導してい た大英帝国のアマチュア達がプレーしていた競技種目が選ばれたとのこと。
なお、アマチュアという言葉は、ラテン語のamatorem(恋人)から派生した フランス語で、経済的利益を期待せずに芸術・建築、その他を愛好すると いう意味で使われていた、賛辞的な言葉だった。

 第1回オリンピック大会は1896年にアテネで開催、この時のマラソン走 者は僅か17人、優勝者のギリシャ人のタイムは3時間58分50秒だったという。
 第一次世界大戦後の1920年前後から、スポーツ競技界は一変した。即ち、 上記400mトラックの標準化、ランニング専用靴の開発・進歩、女性スポー ツの盛況、走行トレーニングの科学化、それに『駅伝』の発明(?)などである。
なお『駅伝』は、1917年の東京遷都50周年を記念して、京都・東京間28区 間508kmを、3日掛かりで行った競技をもって嚆矢とし、この『駅伝』の命 名者は土岐善麿であった(ノルウエー人がここまで調べたとは!!)。 

本書では、第二次世界大戦後の動向は、主として中・長距離競走で世界的 に話題になったスター走者達、徒競走に関する代表的な問題について集中し て言及している。
 即ち、東京オリンピックのマラソンで裸足で走って優勝したエチオピアの ザトベック、ケニア人ランナーの台頭、ノルウエーのクリスチャンセン、 そして禅の心で走ったとされる瀬古と中村コーチとの師弟愛、中国の馬軍団 などの物語などが続く。そして、ジョキング革命(17世紀のイングランドで、 ヒトや動物のゆっくりした走り方を云い、現在では、『会話ができる速さ』 での走りとされている)の到来、大都市マラソン(1970年9月、ニューヨーク 市マラソンが初めてで、126人のランナーが参加、主催者、スポンサー、 マラソン愛好者とが融合した大会となり、以降、世界中の大都市に波及した)、 ドーピング問題、スポンサーとランナーのプロ化との関係など、盛り沢山 の話題が提供されている。

 最後に、本書が結論的に提起している問題としては、第一に、2008年ま でに100m走で10秒を切ったランナーは16カ国の55人で、このうち日本の 東 浩司の10秒00を除く全員が非白人系。白人が10秒の壁を突破できない というのは、偶然であろうか。逆に、アメリカの黒人には長距離ランナー はいないこと、ジャマイカが800m以上の競技で世界一線級のランナー を出したことは一度もないことなどについては、特定の遺伝子および文化 的要因が関与している可能性があるかもしれないとしている。

 第二の問題は、例えば100mは、1900年には10秒8に対して、2008年には
9秒69、また10.000mは、1900年には31分40秒だったのが2008年には26分 17秒53と、年と共に記録は向上しているが、フランスのスポーツ医学研究 機関によれば、人類は競争、その他の運動種目で、間もなく世界記録の限 界に達するとしているそうだ。その根拠は、世界記録の更新頻度が落ちて きていること、この趨勢を数学的にモデル化した計算によると、2027年を 過ぎると、走る種目での世界記録の更新はほぼなくなるだろうと結論付け られるそうで、将来、若し記録が更新されることがあるとすれば、アフリ カ出身の選手達によるものであろうとする。

 最後に、本書の最大の欠陥を挙げると、そのボリューム(400頁)、値段 (2.700円)にも拘わらず、珍しくソフトカバーであることだ(値段を安くす るためか?)。
 さて、2012年7月27日開催の第30回ロンドン・オリンピックでは、陸上 走行で、どの国のランナーにより、どのような記録が出るか、楽しみで ある。

 

 

 


『ニッポン━ヨーロッパ人の眼で観た』
(ブルーノ・タウト著  春秋社)

前川 彬    

ブルーノ・タウトは、ドイツの建築家で、ドイツ・ナチス政権に追われ 1933年53歳で日本に亡命し、3年余り滞在した。
この世界的な建築家は、滞日中精力的に旅行し日本文化の理解を深め、 とくに日本建築の評価に関しては日本の建築界に対し今日まで多大の影響 を与えている。

本書は、彼が来日後2ヶ月余の間に、日本の都市や名勝、著名な寺社仏閣 をはじめとする建築構造物、古典芸能や文化的な催事、街中の風物などを 視察して、その研究観察と体験の成果をまとめたものである。外人の日本 観によくあるような成見にはとらわれず、その観察は的確であり、いま読 んでも少しも違和感を感じるところがない。
(訳者篠田英雄氏のあとがきから)

彼が本書を著した理由は、序言で書いているように、日本の文物に関する 従来の西洋の文献は甚だ適切さを欠いており、その誤った判断が自国に関 する日本人の判断に影響を与え害を及ぼしている。
日本文化はいま転回点に立っており、日本の新旧文化に対して日本人がど う考えていくべきかを考える際に、日本を愛する一人のドイツ人の率直な 所言を聞くことも大切なのではないか、というところにある。

その所見をいくつか掲げてみよう。
伊勢神宮  その構造と材料とがあいまって見事な釣合いを構成し、日本 文化のもつ一切の優れた特性が渾然と融合して見事な結晶をなして高貴な 姿を具現している。
桂離宮  17世紀に竣工したこの建築物こそ実に日本の典型的な古典建 築であり、アクロポリス(アテネ)にある
パルテノンにも比すべきものである。設計者の小堀遠州は、伊勢の精神に 基づいて日本建築を改革した建築家であって、この建築物の特性は現代の 日本の住宅にも生きている。
茶の湯  抒情詩的に洗練の極致に達した茶室建築のなかで、一切の煩動 を遠離し清逸と観照とを恣にしながら伝統的な作法に従い伝来の道具を用 いててん茶をするのは、実に驚嘆すべき社交形式である。
日本料理  ヨーロッパ人にとって、この上なく清新であり味覚の喜びが ある。自然のままの材料を食膳に供し、明快・単純・純粋な料理法を特色 とし、その食材の多種多様なことは驚くばかりである。

このように、彼は、日本の風土・気候や国民性に根ざした文化の歴史的特 色を踏まえ、建築物をはじめとして日本の文物を的確に評価し明快な判断 をしているのであるが、それが2ヶ月余の短期間でなされたことは驚くべ きことである。
なお、日本建築に関しては、2年後に書かれた『日本美の再発見』(岩波 新書)でさらにその評価が深められている。

この著書の最後で、彼は、日本は、これまでしばしば外国の影響はあって もそれを同化摂取して日本的なものとし、やがてその中から本来の日本的 なものを産み出してきた。今日の日本もまた近代技術の影響を受けるとい う大きな課題に直面しているが、これを摂取して日本的なものに改容し日 本文化の血肉に化していくのではないか、と期待している。

本書は、日本人に対して、自国の文化に誇りを持ち、それを守り育ててい く勇気を与える書として今なお価値を有する著作であるといえよう。

教科書市場は左翼独占の場になり、まさに日教組状態になっている。こ の様な状況では、次世代の国民教育に大きな問題を残す事となる。
中国は1985年(昭和60年)に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館を建て 反日教育を続けている。南京事件は捏造である事が判明しているのに何 故非難を続けるのか問題である。国家資本主義の矛盾を転嫁せざるを得 ない国内事情に依るものであろうが、共産主義にのみ責任を追及するの は不十分でそれ以上に中国の古代から引き継いだ「易姓革命」の政治理 念に帰して考えるべきであろう。

吉田茂を大宰相と評価する人は多いが、真珠湾の騙し討ちの原因を作っ た2人の外交官をともに外務次官として処遇し、1人を戦後初めて天皇が マッカーサーに面会した時に通訳として立ち会わせ、もう一人をサンフ ランシスコ平和条約締結時に随員として立ち会わせた事は歴史を曲げ、 外務省の責任を隠蔽し、真珠湾の騙し討ちの事実を隠蔽した事になろう。
終戦時の総理として果たした責任は多とするがアメリカからの再軍備要 請を警察予備隊として処理した事や講和条約締結後の日本国民としての 戦争総括をしなかった事が議論の対象となるだろう。

教科書問題と中国の反日教育は今後の重大問題で皆様にもご一読の上お考え頂きたい。

 

 

 

ご要望にお応えして、ジャンルを定めない自由評論コーナ ー【私の一言】を設けました。 評論の評論はもとより、社会評論等自由なご意見をお届けします。

『原発の幻想から一日も早く覚める時』
岡田桂典 

  
 
私は前回の寄稿「ある原発パイオニアの証言」で井上さんの“どのような 機械でも必ず壊れる”、“使用済みの核燃料の処理は出来ない”という言葉 を紹介させていただきました。

政府は必要だからと大飯原発の再稼働を命じましたが、原子力安全・保安 院が作成した原発を稼働させるための緊急対策30項目の内、この原発は 15項目の改善しか達成してないのです。免震棟、ベント装置、津波対策 等は未達成です。大飯町の住民の70%以上が再稼働賛成ですが、その方 々の70%が安全は心配だと言っています。“壊れない”、“安全”だと政府 はどうしていえるのでしょうか。

次に原発の稼働は“使用済みの核燃料は処理できるということが絶対の前 提です。
我が国の原子力平和利用の夢は原発の使用済み核燃料は「第一に青森県の 六ヶ所村の再処理工場でプルトリウム等を取り出し、廃棄物はガラスで固 体化して地中に埋設する」「第二にプルトリウムは高速増殖炉(もんじゅ) で発電に使う」という壮大なものでした。ところが巨費を費やした再処理 工場はいまだに動いていません。動いたとしても廃棄物を埋める場所は “日本にはない”のです。この事実だけでも再処理計画は砂上の楼閣でした。
高速増殖炉も稼働は依然として絶望的です。他の先進国は既に開発を止め ています。

大飯原発の使用済み核燃料プールの収容能力は4383本、11年6月で 約70%は塞がっています。
重要なことはアメリカ初めとする先進国でも日本が夢見た使用済み核燃料 の処理と再利用は困難だと諦めて燃料棒は「直接処分」を行うことです。
6月29日の朝日新聞のインタビューで近藤原子力委員会委員長は、我が 国の原発は“すべての使用済み核燃料を再処理しないと立ち行かなくなる 仕組みで、その運命を青森に委ねている”と述べると共に“今後は直接処分 との併存になるでしょう”と語っています。これは大変なことです。青森 の計画は達成不可能ですから併存は無理だと思います。
かくて全ての使用済み核燃料を“直接処分”するのが必然です。直接処分と は使用が終わった燃料棒を20年間くらい冷却し、厳重に作られた容器に 入れて地中深く埋めて1万年位放射能が消えるのを待つのです。しかし、 日本には埋蔵する壮大な砂漠はありませんから現場での“永遠冷却”が必然
です。

福井県や大飯町の方々に、大飯原発では数年稼働すると使用済み核燃料の 置き場が無くなる、だからすぐに操業を止めて少しでも処理量を増やすべ きではない、直ちにM10の地震が来ても壊れない冷却プールを作らなく てはならないと伝えるべきです。全国の原発も稼働しなくても同様です。

NHKの番組で政府内には“プロジェクト不滅の原則“があって、不可能だ と思えるこの再処理計画を100年後のために続けるべきだという人もい るようです。しかし自分で作ったものを自分の世代で解決できないものが 本当の技術と言えるのでしょうか.6月29日、首相官邸を原発再稼働反 対を訴える10万人以上の自発的デモが囲みました。“直接処分“が必然だ と知れわたり始めると、「何故こんなモノを作ったのだ」と悲痛な声が上 がりそうですが、現実は現実、事実は事実として各原発に貯まった使用済 み核燃料の安全確保のために“直接処分−永遠冷却”を一日でも早く進めな くてはならないと思います。地震と火山の活動期に入った日本で先送りは 極めて危険だと考えます。

 

 

 
7月27日からロンドンでオリンピックが開催されます。今回は26競技で
争われますが、中心は47種目ある陸上競技といえましょう。これにちな
み丸川 晃さんからトル・ゴタスの『なぜヒトは走るのかーランニング
の人類史-』の書評をいただきました。できればオリンピックまでにこれ
を読み、それを参考にテレビ観戦をしたいと思っていますが。

ところで、国連の一機関であるIHDP (International Human Dimensions
Programme) が、算出した国民一人当たりの国富(天然資産(土地、森
林、天然資源など)、人的資産(教育レベル、スキル)、「生産された」
あるいは物理的資産(機械、建物、インフラなど)の三つの種類から構
成)は、調査した20カ国の中で最高だったそうです。天然資産は全体の
1%しかないが、人的資産はどこよりも高い結果だったとのことです。
(7月5日ライブドア・ニュース) 
一番というのはいいものです。
オリンピックでの多くの金メタルを期待したいと思います。
今号も貴重なご寄稿をいただきありがとうございました。(H.O)


 





 
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