著者 高橋亀吉は1891年生まれ 早大商科卒 拓殖大学教授 1977年没森垣淑は1925年生まれ 東大法学部卒 拓殖大学教授・駿河台大学教授アメリカの大恐慌についての著書は多いが日本の昭和金融大恐慌についての著書は少ないと聞く。私は銀行制度、制度運用の歴史についてあまり知識がなかった。この著書を通じて明治、大正、昭和初期の銀行の実態について一応の知識をえた。大正9年の恐慌から、昭和2年の銀行大恐慌に至るまでの救済措置と結果について、関東大震災による震災手形救済問題も含めて銀行名を挙げ一般企業名をあげ、大枠の数字も示しながら記述している。
第1次世界大戦で我が国経済は質量ともに大発展を遂げたが、大正9年に戦後の経済縮小期に入った。この時、不良企業の整理を行わず、過度の投機に走り、日銀も含めて金融は一時的弥縫策に終始した。当時の銀行は財閥、大手企業の資金調達部門的性格が強く明治以来の問題を抱えていた。台湾銀行や朝鮮銀行は国策遂行銀行でもあり、台湾銀行と鈴木商店との癒着、華族銀行と言われた十五銀行と松方政商グループとの癒着にも大きな問題があった。日銀はまだ力が弱く政府の指示に従うだけであった。
政党政治の争いも強烈であった。
大正12年に関東大震災が発生し我国産業に大打撃を与えたが、同時に円-ドル為替レートに国際的投機が発生(上海筋が大きい)し、為替は急激な乱高下を繰り返し、日本経済全般にダメージを与えた。
前時代的銀行制度の銀行経営は破たんの限界線に近ずいていた。こうした状況にあって、世界各国は金本位制に復帰しつつあり、わが国も金本位制復帰に意見が強くなった。しかしそのためには震災手形の整理が必要であった。
震災手形処理法案が国会に上程されると、政争の道具とされ、その実情が国民に衝撃を与え、片岡蔵相の失言を契機に銀行の取り付け騒ぎに発展した。
昭和2年3月。
当時の日本の銀行は産業発展に伴う資金需要のため設立されたのではなく、明治維新の秩禄公債の資金化のために設立されたものである。その銀行が事業を始め拡大したため、銀行が特定企業との癒着を断つには昭和金融大恐慌までの経過が必要であったと言える。
大正9年の銀行恐慌の時に、銀行制度を改め、不良債権と不良事業の整理をすれば、昭和金融恐慌は避け得たともいえるが、これは後知恵であろう。
3月の取り付けは収まったものの、台湾銀行が多くの震災手形を保有し経営が悪化していた。台銀はかねてより鈴木商店に多額に貸付をしており、鈴木商店の経営悪化で銀行の経営も悪化した。台湾銀行は3月27日に鈴木商店との絶縁を決意した。この報道が4月1日に報道され取り付け騒ぎが始まった。17日に台湾銀行、近江銀行、21日には十五銀行が休業した。若槻内閣総辞職、田中内閣は高橋是清を蔵相に任命し処理に当たらせた。高橋は3週間のモラトリアムの勅許を発令し銀行の支払いを停止し、現金供給に尽力した。モラトリアム前の4月22日、23日は全国の銀行が休業した。モラトリアム終了後取り付け騒ぎは収まった。
この後不良債権企業、不良債権整理のなかで中小の銀行が多数倒産、吸収合併され銀行界の近代化が進んでいく。
大正8年2069行あった銀行は昭和7年には663行になっている。
恐慌後の新銀行法には
1.最低資本金と法形態の制限
2..利潤の強制積立
3.銀行重役の兼業の原則禁止
4.当局の銀行検査の厳格化等の諸項目が含まれている。
明治維新後、政府は産業育成をいろいろ行なったが近代的な銀行は昭和になるまで成立しなかった。
昭和金融恐慌の実態、当時の銀行制度の実態を知る上で貴重な一冊である。ご一読をお薦めする。
追記 鈴木商店自身は売上がGNPの10%を超える総合商社でありこのときに清算されるが持ち株会社は60社の内健全であった企業はいまも産業界で活躍している。-
神戸製鋼、帝人、IHI、サッポロビール、豊年製油など。