阿片戦争で清国が敗北したことを知り、欧州諸国の植民地化におびえて開国して近代国家建設を目指した明治の日本にとって、日露戦争は国家の命運を賭した戦争だった。戦争が終わったとき、日本は人的・経済的資源を殆ど消耗しきっていた。今に続く朝鮮半島との諸問題、中国との軋轢の原因はすべてここに始まったといえるだろう。
この時代は、欧州列強による植民地獲得競争の最後の時期に当っていた。ロシアは、その特殊権益を清国から満州に拡大しようとして、遼東半島を租借して東清鉄道を敷設し、鉄道警備のためと称して軍隊を駐留させ、更に朝鮮半島を窺う様子をみせていた。遼東半島は日本が日清戦争の結果、一旦、清国から割譲させながら、独・仏・露の三国干渉に屈して清国に返還させられた地域であった。近代建設の緒についたばかりの日本にとって、この戦いは国運を賭けた戦争であった。また、戦争史上でも機関銃、トーチカ、塹壕戦など、その後の戦争の形を大きく変えた最初の戦争であった。
当時、世界最大の陸軍国といわれたロシアと戦端を開くに際しての政府当局、および陸海軍首脳部の配慮と準備、国際社会への配慮など、また戦争開始後も常に終結の時期を模索していた上層部の姿勢は、そうせざるを得なかったという事情はあるにしても、優れていたと思う。さきの大戦開始に至る過程を顧みればなんという違いがあることかと考えさせられる。
日清・日露戦争に始まり、大東亜戦争(太平洋戦争)で終る約50年間は、わが国にとってまさに戦争の時代だった。しかし、この成功体験こそが後年の不幸の始まりだった。その萌芽は日露戦争に始まっていた。今になってみれば、この時代は帝国主義時代の末期に当り、日本は遅ればせながら列強の植民地獲得競争に参加しようともしていたのだろう。しかし、同時にロシアの南下政策に対する恐怖心も強かったようだ。この戦争は、その後、日露両国の国内事情に大きな影響を与えた。ロシアではレーニンによる共産革命、わが国では普通選挙の採用と軍部の勢力拡大といった形で社会が変わった。山縣有朋は、日本の勝利は限定的であって、いずれ「ロシアの復讐的南下」が必ず生ずると予想し、「日本の勝利はやや長期の休戦」に過ぎないと考えた。彼の予見は的中し、45年後、第二次大戦の末期、敗北が決定的となった日本に宣戦布告した。そして、スターリンはこの戦争を「日露戦争の汚点を雪ぐための戦い」であったと述べたという。
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